「うひゃあっ」
卯太郎は蹴躓いて、せっかく持ってきた食事を地面にぶちまけてしまった。
「なにやってんだよ!」
楢崎の野次がとぶ。
うう、と思わず座り込むと、尊敬してやまない仰木隊長がやってきた。
「大丈夫か」
「す、すみません!いま新しいものをっ!」
「焦らなくていい。こんなところに運ばせたオレが悪いんだ」
「いいえ、わしがドジやき──」
「お前はよくやってる。今から食堂に行ってメシにするから、一緒に行こう」
「……は、はいっ」
嬉しさのあまり涙が滲みそうだ。
高耶はそんな卯太郎を優しい瞳で眺めている。いつでも全力、一生懸命の卯太郎が可愛くてしょうがない。
「じゃあ、隊長、我々も」
「お前らは駄目だ。さっき、人の目盗んでサボってただろ。このままここで訓練してろ」
そう言い放つと、卯太郎とともに歩き出した。
「ご飯、もったいないことしました」
「ちゃんと土に還るさ」
仲良く話す二人の後姿を、遊撃隊の猛者たちも見送るしかなかった。
blazing sparks "親" ≪≪
≫≫ blazing sparks "信"
卯太郎は蹴躓いて、せっかく持ってきた食事を地面にぶちまけてしまった。
「なにやってんだよ!」
楢崎の野次がとぶ。
うう、と思わず座り込むと、尊敬してやまない仰木隊長がやってきた。
「大丈夫か」
「す、すみません!いま新しいものをっ!」
「焦らなくていい。こんなところに運ばせたオレが悪いんだ」
「いいえ、わしがドジやき──」
「お前はよくやってる。今から食堂に行ってメシにするから、一緒に行こう」
「……は、はいっ」
嬉しさのあまり涙が滲みそうだ。
高耶はそんな卯太郎を優しい瞳で眺めている。いつでも全力、一生懸命の卯太郎が可愛くてしょうがない。
「じゃあ、隊長、我々も」
「お前らは駄目だ。さっき、人の目盗んでサボってただろ。このままここで訓練してろ」
そう言い放つと、卯太郎とともに歩き出した。
「ご飯、もったいないことしました」
「ちゃんと土に還るさ」
仲良く話す二人の後姿を、遊撃隊の猛者たちも見送るしかなかった。
blazing sparks "親" ≪≪
≫≫ blazing sparks "信"
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潮にとって高耶とは、やっぱり友達という感覚がある。
だから人が大勢集まる場所では、毒のことがあるせいかどうしても隅のほうでひとりになりたがる高耶に、潮は遠慮なく話しかけた。
最初はうるさそうにしていても、なんだかんだで相手をしてくれる。
若者らしい口調や、変化に富んだ表情。
そのしなやかな彼らしい仕草を前にして、こうでなくては、と思う。
馬鹿騒ぎをしたり、くだらないことを喋ったり、友達とはそういうものだ。
そしてたぶん、高耶からそういったものを引き出せるのは自分だけだということが、潮には嬉しくてしょうがなかった。
blazing sparks "厳" ≪≪
≫≫ blazing sparks "庇"
だから人が大勢集まる場所では、毒のことがあるせいかどうしても隅のほうでひとりになりたがる高耶に、潮は遠慮なく話しかけた。
最初はうるさそうにしていても、なんだかんだで相手をしてくれる。
若者らしい口調や、変化に富んだ表情。
そのしなやかな彼らしい仕草を前にして、こうでなくては、と思う。
馬鹿騒ぎをしたり、くだらないことを喋ったり、友達とはそういうものだ。
そしてたぶん、高耶からそういったものを引き出せるのは自分だけだということが、潮には嬉しくてしょうがなかった。
blazing sparks "厳" ≪≪
≫≫ blazing sparks "庇"
高耶は切り替えが早い。
端から見ていて気持ちがいいくらいだ。
ある隊士が失敗したとする。
もちろん失敗を怒りはするが、無駄に喚いたりせず、すぐにそのミスに対する最善の処置を判断し、指示することが出来る。
それを間近に見る遊撃隊のメンバーたちは、どんな軍隊よりも格好の勉強の場だろうと思う。
重要なのは、失敗をどう取り返すかという事だ。
ただ、一度だけ兵頭が小さな判断ミスをしたことがあった。
何故かそれを、高耶は予想以上に怒ったのだ。
決して兵頭のアラを見つけて大げさに騒いだ訳ではない。
兵頭の心に油断があったことを怒ったのだ。
お前なら、こんなミスは避けられたはずだ、と。
他の隊士とは次元の違うレベルでの怒り。
兵頭ならもっと出来ると思うから、求めてくるのだ。
そのことが、兵頭にはとても誇らしく思えた。
≫≫ blazing sparks "親"
端から見ていて気持ちがいいくらいだ。
ある隊士が失敗したとする。
もちろん失敗を怒りはするが、無駄に喚いたりせず、すぐにそのミスに対する最善の処置を判断し、指示することが出来る。
それを間近に見る遊撃隊のメンバーたちは、どんな軍隊よりも格好の勉強の場だろうと思う。
重要なのは、失敗をどう取り返すかという事だ。
ただ、一度だけ兵頭が小さな判断ミスをしたことがあった。
何故かそれを、高耶は予想以上に怒ったのだ。
決して兵頭のアラを見つけて大げさに騒いだ訳ではない。
兵頭の心に油断があったことを怒ったのだ。
お前なら、こんなミスは避けられたはずだ、と。
他の隊士とは次元の違うレベルでの怒り。
兵頭ならもっと出来ると思うから、求めてくるのだ。
そのことが、兵頭にはとても誇らしく思えた。
≫≫ blazing sparks "親"
ワッハッハッハッ
大きな身体をゆすって大きな声で笑っているのは、ここらあたりの職人連中には名の通った大親分だ。
「まあまあ、呑みなさい」
大きな手で大きな徳利を差し出してくる。
「……ありがとうございます」
景虎の手の内の猪口に、なみなみと酒が注がれた。
自身も腕のいい職人である親分は、景虎個人の数少ない知人でもある。
現生においては飾り職を生業としている景虎だったが、旅に出ることが多いせいでなかなか仕事がこなせない。
そんな景虎を"腕のいい職人には悪癖のひとつやふたつあって当然だ"と庇ってくれる、恩人のような存在なのだ。
だからわざわざ元旦を選んで年賀の挨拶にやってきたのだが、あがれあがれと勧められて結局酒までご馳走になっているのである。
「あれ、もうないか。おい、ヤス!」
その手にした徳利の殆どを自分の腹に収めてしまった親分が奥に向かって大声で呼ぶと、元気のいい返事とともに景虎の見知らぬ若者が顔を出した。
「こういうものはな、無くなる前に察して持ってくるものだ」
「へえっ、すんませんっ」
頭をへこっと下げた後で、バタバタと下がっていく。
「新しいお弟子さんですか」
「まあな」
何か曰くありげな笑みを浮かべた親分は、次の言葉を告げるのにヤスが戻るのを待った。
新しい酒はすでに奥で用意されていたらしく、ヤスが引き返すようにして戻ってくると、親分はヤスの背中を力強く叩きながら言った。
「何でもするからうちに置いてくれって言われてな、最初は断ったんだ。なあ?」
「へえ」
叩かれた反動で盆の上の徳利が傾いたから、慌てて手で支えながらヤスが答える。
けれどその平手をくらうことすら嬉しいといった感じで、喋りながら酌を始めた。
「お断りされてから一週間こちらに通いつめまして、おとついようやくお許しがでたわけなんです」
まずは親分の盃を満杯にすると、景虎にもたっぷりと注いでくれる。
「どうしても、親分さんのそばで働きたかったんで」
以前、困っているところを親分に助けてもらったことがあるそうだ。どうやら親分の職人としての技術を学びたいというよりは、その人柄に惚れてしまったらしい。
「一週間も通い詰めるなんて、良い性根をなさってる」
景虎はそう褒めた。
すると、
「いえ、そんな……」
照れて笑うその表情が、なんとも初々しい。
「けれど、この身は一生、親分さんに捧げるつもりでいるんです」
一生とは大きく出たなと景虎が驚いていると、親分は半眼になって手を横に振っている。
「今だけ、今だけ。あんたも知ってるだろう?うちの馬鹿倅のこと」
親分には目に入れても痛くないほどに溺愛する、ひとり息子がいる。自分の跡取りにするのだと、持てる技術の全てを注ぎ込んで育てたのだが、一昨年、何の前触れもなく家を出て行ってしまった。今では立派に独立して、大店相手に取引までしているそうだが、親分は未だにその時のことを根に持っているらしい。
「若い者の面倒なんてものはね、見るだけ損だね」
「親分さん……」
何か言いたげな顔をしたヤスを、なんだい、と親分は無下にする。
「いえ。あっしの決意は働きで証明して見せやす」
「そうかい」
ところが、無表情を装ってヤスを見つめる親分の瞳は、親が子を見つめる瞳そのものだ。愛おしくてしょうがないといった感じが伺える。
景虎は思わず笑ってしまった。
「なんだい」
「ならばどうして、彼を置いてやることにしたんです?」
「……………」
実はこの親分は、先ほど馬鹿と呼んだ息子がたまに実家に帰ってくる度、近所の連中を呼び集めて酒盛りを開いているのだ。立派に成長した息子を、周囲に自慢したくてしょうがないのだろう。
「なんだかんだ言って、可愛いのでしょう?」
「それを言っちゃお仕舞ぇよ」
親分は拗ねたように言って、手中の盃を飲み干した。
その一部始終を聞いていたヤスは、親分の空になった盃を満面の笑みで満杯にした。
土産の酒まで持たされて、家を出た頃にはもう暗くなっていた。
供も提灯も断って帰途についた景虎は、暗い闇の中をスタスタと歩いていく。
うまい酒を飲んだから、今夜はゆっくりと眠れそうだ。
ところが自宅の前まで来て、家の中に何者かの気配を感じ取った瞬間、景虎の表情は一気にきつくなった。普通なら懐に忍ばせた合口にでも手をやるところだが、景虎はそのほろ酔いの身体に《力》を溜めつつ、静かに戸を引く。
「誰だ」
警戒心をむき出しにした景虎の声に、部屋の中の男は物怖じせずに応えた。
「こんな時間まで、どちらにいらしてたのですか」
聞き覚えのあるその声に、景虎は安堵とも落胆とも取れるため息を洩らす。
「………直江か」
「ご無沙汰しております」
無沙汰と言うほど、間は空いていないと思う。少なくとも夜叉衆の中では、一番最近に見た顔だ。けれどそのことはあえて言わなかった。
「灯りくらい、つけたらどうだ」
手にしていた酒を置いて火を入れる景虎を、直江は黙って見つめている。
「こんなところにいて良いのか」
元日の夜だ。直江には過ごすべき家族がいる。
けれど今日は、自分に会いにくるときには脱げと言ってある黒羽織を着込んだままの姿だ。
どうせまたどこかで死体が出たとかなんとか言って、強引に家を出てきたのだろう。
「挨拶に参ったのです」
そう言うと、直江は古臭い手順で年始の挨拶を始めた。
今やこんなことは、城内でも行われていないのではないだろうか。
それが終わると、
「では帰ります」
と言って立ち上がる。
本当にそのためだけにきたらしい。
景虎は反射的に土産の酒を手に取った。けれど告げるべき言葉が見つからない。
「直江」
「───はい」
すでに履物に足を置いていた直江は、いつもの生真面目な顔で振り返った。
「………越後の酒だそうだ」
景虎は酒を直江の前に置いた。
「………?」
時折とてつもなく鈍くなるこの男には、その意味が伝わらないらしい。
「忙しいのならいいのだが………」
と呟くように言った景虎の言葉でようやく、わかった、という顔をした。
「いえ、頂いていきます」
焦ったように言う直江を横目にみて、景虎は立ち上がる。
「ならばいま支度を………」
と言うと、不意に腕を掴まれた。
「主人にそのようなことをさせるわけには参りません。ここは私が」
そう言って、流しの前に立つ。
曲がりなりにも武家の跡継ぎなのだから、普段は台所に立つことなどないのだろう。
長屋の端の狭い家だから、まる見えの後姿が相当困った様子で、思わず意地悪く観察してしまう。
それでもなんとか準備が整ったらしく、やっと酒にありつけることができた。
直江はその冷酒をひとくちだけ含んで、
「さすがに味が違いますね」
とかなんとか調子のいいことを言っているが、本当にわかっているのかどうか。
その言葉には答えないでいると、今度は別の話題を持ち出してきた。
「越後は今頃、雪でしょうか」
実は直江は、今生ではまだ一度も越後を訪れたことはない。
「そうだな」
きっとその雪解けの水で作られたであろう酒を味わいながら、景虎は答えた。
越後の雪や酒や、いろいろなことを思い出しながらふと直江をみると、同じように懐かしむような表情になっている。
その表情が、穏やかな微笑を伴っていることに直江は自分で気づいているのだろうか。
そして何故、自分の口元も同じように緩んでいるのか。
これは決して、酒のせいでも思い出のせいでもないのだと断言できる。
こんなにも胸の内があたたかいのは、いま、ひとりでないからだ。
───この身は一生、親分さんに捧げるつもりでいるんです
───なんだかんだ言って、可愛いのでしょう?
普段はめったに火をともさない行灯のあかりが、ゆらゆらとふたりの顔を照らしていた。
親が子を想うことに理由などないように、自分が何かを想うことにもきっと理由は必要ない。この男が抱く、想いにも。
数年前にはまだまだ新米同心といった感じだった直江も、今では黒羽織も板について頼もしくさえ見える。日に日に成長していくこの男をみていると、自分の時間も流れているのだということに、改めて考えつく。
今年は、どんな年になるだろうか。
(おまえにとって、よい年になるといい)
そう思った景虎の心を読んだかのように、直江が盃を掲げた。
「あなたにとって、よい年でありますように」
驚いて、小さく息をとめた景虎も、ややしてゆっくりと盃を持ち上げた。
「互いにとって、だ」
「………景虎様」
しばらく相手の瞳を見つめあった後で、ふたりは同時にその盃を空にした。
大きな身体をゆすって大きな声で笑っているのは、ここらあたりの職人連中には名の通った大親分だ。
「まあまあ、呑みなさい」
大きな手で大きな徳利を差し出してくる。
「……ありがとうございます」
景虎の手の内の猪口に、なみなみと酒が注がれた。
自身も腕のいい職人である親分は、景虎個人の数少ない知人でもある。
現生においては飾り職を生業としている景虎だったが、旅に出ることが多いせいでなかなか仕事がこなせない。
そんな景虎を"腕のいい職人には悪癖のひとつやふたつあって当然だ"と庇ってくれる、恩人のような存在なのだ。
だからわざわざ元旦を選んで年賀の挨拶にやってきたのだが、あがれあがれと勧められて結局酒までご馳走になっているのである。
「あれ、もうないか。おい、ヤス!」
その手にした徳利の殆どを自分の腹に収めてしまった親分が奥に向かって大声で呼ぶと、元気のいい返事とともに景虎の見知らぬ若者が顔を出した。
「こういうものはな、無くなる前に察して持ってくるものだ」
「へえっ、すんませんっ」
頭をへこっと下げた後で、バタバタと下がっていく。
「新しいお弟子さんですか」
「まあな」
何か曰くありげな笑みを浮かべた親分は、次の言葉を告げるのにヤスが戻るのを待った。
新しい酒はすでに奥で用意されていたらしく、ヤスが引き返すようにして戻ってくると、親分はヤスの背中を力強く叩きながら言った。
「何でもするからうちに置いてくれって言われてな、最初は断ったんだ。なあ?」
「へえ」
叩かれた反動で盆の上の徳利が傾いたから、慌てて手で支えながらヤスが答える。
けれどその平手をくらうことすら嬉しいといった感じで、喋りながら酌を始めた。
「お断りされてから一週間こちらに通いつめまして、おとついようやくお許しがでたわけなんです」
まずは親分の盃を満杯にすると、景虎にもたっぷりと注いでくれる。
「どうしても、親分さんのそばで働きたかったんで」
以前、困っているところを親分に助けてもらったことがあるそうだ。どうやら親分の職人としての技術を学びたいというよりは、その人柄に惚れてしまったらしい。
「一週間も通い詰めるなんて、良い性根をなさってる」
景虎はそう褒めた。
すると、
「いえ、そんな……」
照れて笑うその表情が、なんとも初々しい。
「けれど、この身は一生、親分さんに捧げるつもりでいるんです」
一生とは大きく出たなと景虎が驚いていると、親分は半眼になって手を横に振っている。
「今だけ、今だけ。あんたも知ってるだろう?うちの馬鹿倅のこと」
親分には目に入れても痛くないほどに溺愛する、ひとり息子がいる。自分の跡取りにするのだと、持てる技術の全てを注ぎ込んで育てたのだが、一昨年、何の前触れもなく家を出て行ってしまった。今では立派に独立して、大店相手に取引までしているそうだが、親分は未だにその時のことを根に持っているらしい。
「若い者の面倒なんてものはね、見るだけ損だね」
「親分さん……」
何か言いたげな顔をしたヤスを、なんだい、と親分は無下にする。
「いえ。あっしの決意は働きで証明して見せやす」
「そうかい」
ところが、無表情を装ってヤスを見つめる親分の瞳は、親が子を見つめる瞳そのものだ。愛おしくてしょうがないといった感じが伺える。
景虎は思わず笑ってしまった。
「なんだい」
「ならばどうして、彼を置いてやることにしたんです?」
「……………」
実はこの親分は、先ほど馬鹿と呼んだ息子がたまに実家に帰ってくる度、近所の連中を呼び集めて酒盛りを開いているのだ。立派に成長した息子を、周囲に自慢したくてしょうがないのだろう。
「なんだかんだ言って、可愛いのでしょう?」
「それを言っちゃお仕舞ぇよ」
親分は拗ねたように言って、手中の盃を飲み干した。
その一部始終を聞いていたヤスは、親分の空になった盃を満面の笑みで満杯にした。
土産の酒まで持たされて、家を出た頃にはもう暗くなっていた。
供も提灯も断って帰途についた景虎は、暗い闇の中をスタスタと歩いていく。
うまい酒を飲んだから、今夜はゆっくりと眠れそうだ。
ところが自宅の前まで来て、家の中に何者かの気配を感じ取った瞬間、景虎の表情は一気にきつくなった。普通なら懐に忍ばせた合口にでも手をやるところだが、景虎はそのほろ酔いの身体に《力》を溜めつつ、静かに戸を引く。
「誰だ」
警戒心をむき出しにした景虎の声に、部屋の中の男は物怖じせずに応えた。
「こんな時間まで、どちらにいらしてたのですか」
聞き覚えのあるその声に、景虎は安堵とも落胆とも取れるため息を洩らす。
「………直江か」
「ご無沙汰しております」
無沙汰と言うほど、間は空いていないと思う。少なくとも夜叉衆の中では、一番最近に見た顔だ。けれどそのことはあえて言わなかった。
「灯りくらい、つけたらどうだ」
手にしていた酒を置いて火を入れる景虎を、直江は黙って見つめている。
「こんなところにいて良いのか」
元日の夜だ。直江には過ごすべき家族がいる。
けれど今日は、自分に会いにくるときには脱げと言ってある黒羽織を着込んだままの姿だ。
どうせまたどこかで死体が出たとかなんとか言って、強引に家を出てきたのだろう。
「挨拶に参ったのです」
そう言うと、直江は古臭い手順で年始の挨拶を始めた。
今やこんなことは、城内でも行われていないのではないだろうか。
それが終わると、
「では帰ります」
と言って立ち上がる。
本当にそのためだけにきたらしい。
景虎は反射的に土産の酒を手に取った。けれど告げるべき言葉が見つからない。
「直江」
「───はい」
すでに履物に足を置いていた直江は、いつもの生真面目な顔で振り返った。
「………越後の酒だそうだ」
景虎は酒を直江の前に置いた。
「………?」
時折とてつもなく鈍くなるこの男には、その意味が伝わらないらしい。
「忙しいのならいいのだが………」
と呟くように言った景虎の言葉でようやく、わかった、という顔をした。
「いえ、頂いていきます」
焦ったように言う直江を横目にみて、景虎は立ち上がる。
「ならばいま支度を………」
と言うと、不意に腕を掴まれた。
「主人にそのようなことをさせるわけには参りません。ここは私が」
そう言って、流しの前に立つ。
曲がりなりにも武家の跡継ぎなのだから、普段は台所に立つことなどないのだろう。
長屋の端の狭い家だから、まる見えの後姿が相当困った様子で、思わず意地悪く観察してしまう。
それでもなんとか準備が整ったらしく、やっと酒にありつけることができた。
直江はその冷酒をひとくちだけ含んで、
「さすがに味が違いますね」
とかなんとか調子のいいことを言っているが、本当にわかっているのかどうか。
その言葉には答えないでいると、今度は別の話題を持ち出してきた。
「越後は今頃、雪でしょうか」
実は直江は、今生ではまだ一度も越後を訪れたことはない。
「そうだな」
きっとその雪解けの水で作られたであろう酒を味わいながら、景虎は答えた。
越後の雪や酒や、いろいろなことを思い出しながらふと直江をみると、同じように懐かしむような表情になっている。
その表情が、穏やかな微笑を伴っていることに直江は自分で気づいているのだろうか。
そして何故、自分の口元も同じように緩んでいるのか。
これは決して、酒のせいでも思い出のせいでもないのだと断言できる。
こんなにも胸の内があたたかいのは、いま、ひとりでないからだ。
───この身は一生、親分さんに捧げるつもりでいるんです
───なんだかんだ言って、可愛いのでしょう?
普段はめったに火をともさない行灯のあかりが、ゆらゆらとふたりの顔を照らしていた。
親が子を想うことに理由などないように、自分が何かを想うことにもきっと理由は必要ない。この男が抱く、想いにも。
数年前にはまだまだ新米同心といった感じだった直江も、今では黒羽織も板について頼もしくさえ見える。日に日に成長していくこの男をみていると、自分の時間も流れているのだということに、改めて考えつく。
今年は、どんな年になるだろうか。
(おまえにとって、よい年になるといい)
そう思った景虎の心を読んだかのように、直江が盃を掲げた。
「あなたにとって、よい年でありますように」
驚いて、小さく息をとめた景虎も、ややしてゆっくりと盃を持ち上げた。
「互いにとって、だ」
「………景虎様」
しばらく相手の瞳を見つめあった後で、ふたりは同時にその盃を空にした。
てっきり一緒に飲むのものだと思った千秋がさっさと自室に入ってしまったから、高耶は突然のギフトをぼんやりと眺めていた。
こんなことをするのは………出来るのは、直江しかいないと思う。
けれど本当に?だったら何故、名乗らない?
(大体なんで直江しかいないなんて言える?)
自分はきっと、ただ直江であって欲しいと願ってるだけで、このワインが直江からである証拠はどこにもない。
直江に"直江らしい行為"を期待するのは、もう疲れてしまった。
ワインの瓶を手に取った高耶は、コップにも注がずいきなりラッパ飲みをした。
高いものなのだろうが、全く美味しいとは思えない。
千秋の持ってきた硝子のコップを見つめた。
この家にはワイングラスなんてお上品なものだって、置いてない。
こんな飲み方をして、昔だったらきっと嫌みったらしく説教された、とそこまで考えて、高耶はため息をついた。
昔だったら。前だったら。最近はそればかりだ。
本当はこんなもの、ひとりで飲みたくなんかない。こんなワインなんて欲しくはなかった。
欲しいものは、もっと別のものだった。
気が付くとぐいぐいと酒が進んで、いつのまにかソファに横になっていた──……。
夢の中で、男は泣いていた。
赦しを求めて泣いていた。
いったい何の赦し?
───もう終わりにして……!
まだだろう?
まだ上があるんだろう?
なあ、直江。
お前は今、何を見ているんだ。
お前には今、何が見えているんだ。
今のお前の見ているものが、オレにはわからない。
湧き上がってくる感情がどうにも処理しきれなくなって、叫びだしそうになった高耶の背後から、不意に耳になじんだあの声が聞こえた。
「メリークリスマス、高耶さん」
振り返ると、男は立っていた。
なおえ……
こんな夢はしょっちゅう見る。
だけどその声の響きは、過去のものをなぞっただけのものとはまるで違った。
「乾杯をしましょう」
いつの間にか直江の手には先程のワインがある。
直江はワインをぴかぴかに磨かれた綺麗なワイングラスへと注いだ。
興奮や期待に似た感情のせいで早くなる鼓動を、これは夢なんだからと言い聞かせながら答える。
それ、うまくない
「あなたの口にあうように飲みやすいものを選ぶこともできたんですが」
直江がワイングラスを手渡してくる。
「これは特別なものだから」
………仏教徒だぜ、オレら。クリスマスなんて
「そうでしたね。ならそれぞれ好きなことを祝いましょう。私は……そうですね、あなたの生まれた日に」
オレ?誕生日はまだ先だぜ
「生まれてきたことを祝うのに、日付は関係ありませんよ」
そんなのヘンだと高耶は口を曲げた。
それを見て直江は笑う。
「さあ、あなたは何にします」
オレ?おもいつかねーな
「何でもいいんですよ。最近、あったいいこととか」
いいこと……?
首をかしげていた高耶は、やがて思いついたように言った。
じゃあ、この夢に
「高耶さん……」
直江は一度俯いて、痛みに耐えるような表情をしてから顔を上げた。
「では」
グラスを持ち上げる。
「乾杯」
グラスを軽くあわせるとチンといい音が鳴った。
高耶は自分のグラスを一気に空にした。
飲み干して、やっぱり味が……と苦い顔をしていると、直江がこちらを見つめていた。
「あなたのことは神にも悪魔にも渡さない」
………直江?
「私があなたをその場所から救ってあげる」
"その場所"の意味がはっきりわかった訳ではなかったけど、高耶は笑って言った。
うそつき
「うそじゃない」
高耶は笑顔のまま首を振った。
信じない。全部夢だ
「聞いて」
直江は高耶の腕に手を添えると、優しく瞳を覗き込んだ。
「今夜、あなたに魔法を掛けてあげる」
直江はまるで呪文を唱えるように、力強く言葉を紡ぐ。
「今からしばらくの間、あなたは孤独ではなくなる」
高耶の手を取って胸に当てた。
「感じるでしょう?」
何か言いかけた高耶の唇に、直江の人差し指をが当てられた。
「黙って。今日は特別な日だから、こんな奇跡も起きる。あなたの悲しい渇きが少しでも癒えるように」
どうせ目が覚めたら忘れちまう
頑なな高耶を、直江は抱き寄せた。
「わかるでしょう?これは夢じゃない」
夢だ
「夢じゃない」
ほんもののおまえじゃない
「ほんものの私です」
もうおまえはオレになにも感じないんだろう
「私はあなた以外のものには興味がない」
……それが苦しかったんだろう?
「あなたの苦しみに比べたら大したこと無い」
オレが憎かったんだろう?
「それ以上に愛してる。ずっと求めて焦がれて苦しんで愛し続けてる」
……………
この包まれる感じ。
高耶には覚えがあった。
欲しかったのはこれだ。
ずっと求めていたのは───……。
なんでこんなにあたたかいんだろう。
おれはこんなものをずっとおまえに貰っていたのか。
今までどれだけのものをおまえから貰ってきたんだろう
「それ以上のものをあなたが与えてくれた」
体を離した直江が真摯な瞳で言う。
「あなたには先に謝っておきます」
高耶はその言葉の意味が解らず首をかしげた。
「すぐにでもあなたのところへ行きたいけれど、今は自分の身体すら満足に動かせない」
直江の大きな手が高耶の瞼に掛かっていた前髪を梳くようにして除けた。
それが気持ちよくて、高耶は静かに目を瞑る。
すると直江は、額に口づけてきた。
そしてこめかみに。次は頬に。
次々とやさしい口づけが降る。
こんなこと拒まなくてはいけない。
自分は直江の望むようにはしてやれない。
直江に身体は許してやれない。
見返りは与えてやれないはずだった。
けれどもし、自分を想って愛してくれているこの男が、これをしなくてはもう苦しくて続けていけないというのなら。生きていけないというのなら。
もう、拒めない。
これ以上この男を苦しめられない。
彼を殺さないために、例え自分が死ぬような目にあっても。
なおえ………
何より今は、自分が男の行為を求めている。
この行為を受けたらきっと、自分は今までの自分とは違うものになる。
この男は今までいた孤独と苦しみの世界から、きっとどこかへと連れ去ってくれる。
苦しみのない、天上の世界へ。
「あなたときちんと向き合えるようになって、必ず迎えに行くから」
直江は口づけを止めない。
「だから約束してください。離れている間」
けれど明らかに唇だけは避けている。
高耶は少しだけ、瞳を開いた。
「もっと俺を求めて」
求めてる
「焦がれて」
焦がれてる
「苦しんで」
苦しんでる
「愛して」
あい…し……
これは、直江の望みなのだろうか。
それともオレの望みなのだろうか。
あとすこし動けば唇と唇が触れ合う距離で、高耶はそんなことを考えていた。
中編 ≪≪
こんなことをするのは………出来るのは、直江しかいないと思う。
けれど本当に?だったら何故、名乗らない?
(大体なんで直江しかいないなんて言える?)
自分はきっと、ただ直江であって欲しいと願ってるだけで、このワインが直江からである証拠はどこにもない。
直江に"直江らしい行為"を期待するのは、もう疲れてしまった。
ワインの瓶を手に取った高耶は、コップにも注がずいきなりラッパ飲みをした。
高いものなのだろうが、全く美味しいとは思えない。
千秋の持ってきた硝子のコップを見つめた。
この家にはワイングラスなんてお上品なものだって、置いてない。
こんな飲み方をして、昔だったらきっと嫌みったらしく説教された、とそこまで考えて、高耶はため息をついた。
昔だったら。前だったら。最近はそればかりだ。
本当はこんなもの、ひとりで飲みたくなんかない。こんなワインなんて欲しくはなかった。
欲しいものは、もっと別のものだった。
気が付くとぐいぐいと酒が進んで、いつのまにかソファに横になっていた──……。
夢の中で、男は泣いていた。
赦しを求めて泣いていた。
いったい何の赦し?
───もう終わりにして……!
まだだろう?
まだ上があるんだろう?
なあ、直江。
お前は今、何を見ているんだ。
お前には今、何が見えているんだ。
今のお前の見ているものが、オレにはわからない。
湧き上がってくる感情がどうにも処理しきれなくなって、叫びだしそうになった高耶の背後から、不意に耳になじんだあの声が聞こえた。
「メリークリスマス、高耶さん」
振り返ると、男は立っていた。
なおえ……
こんな夢はしょっちゅう見る。
だけどその声の響きは、過去のものをなぞっただけのものとはまるで違った。
「乾杯をしましょう」
いつの間にか直江の手には先程のワインがある。
直江はワインをぴかぴかに磨かれた綺麗なワイングラスへと注いだ。
興奮や期待に似た感情のせいで早くなる鼓動を、これは夢なんだからと言い聞かせながら答える。
それ、うまくない
「あなたの口にあうように飲みやすいものを選ぶこともできたんですが」
直江がワイングラスを手渡してくる。
「これは特別なものだから」
………仏教徒だぜ、オレら。クリスマスなんて
「そうでしたね。ならそれぞれ好きなことを祝いましょう。私は……そうですね、あなたの生まれた日に」
オレ?誕生日はまだ先だぜ
「生まれてきたことを祝うのに、日付は関係ありませんよ」
そんなのヘンだと高耶は口を曲げた。
それを見て直江は笑う。
「さあ、あなたは何にします」
オレ?おもいつかねーな
「何でもいいんですよ。最近、あったいいこととか」
いいこと……?
首をかしげていた高耶は、やがて思いついたように言った。
じゃあ、この夢に
「高耶さん……」
直江は一度俯いて、痛みに耐えるような表情をしてから顔を上げた。
「では」
グラスを持ち上げる。
「乾杯」
グラスを軽くあわせるとチンといい音が鳴った。
高耶は自分のグラスを一気に空にした。
飲み干して、やっぱり味が……と苦い顔をしていると、直江がこちらを見つめていた。
「あなたのことは神にも悪魔にも渡さない」
………直江?
「私があなたをその場所から救ってあげる」
"その場所"の意味がはっきりわかった訳ではなかったけど、高耶は笑って言った。
うそつき
「うそじゃない」
高耶は笑顔のまま首を振った。
信じない。全部夢だ
「聞いて」
直江は高耶の腕に手を添えると、優しく瞳を覗き込んだ。
「今夜、あなたに魔法を掛けてあげる」
直江はまるで呪文を唱えるように、力強く言葉を紡ぐ。
「今からしばらくの間、あなたは孤独ではなくなる」
高耶の手を取って胸に当てた。
「感じるでしょう?」
何か言いかけた高耶の唇に、直江の人差し指をが当てられた。
「黙って。今日は特別な日だから、こんな奇跡も起きる。あなたの悲しい渇きが少しでも癒えるように」
どうせ目が覚めたら忘れちまう
頑なな高耶を、直江は抱き寄せた。
「わかるでしょう?これは夢じゃない」
夢だ
「夢じゃない」
ほんもののおまえじゃない
「ほんものの私です」
もうおまえはオレになにも感じないんだろう
「私はあなた以外のものには興味がない」
……それが苦しかったんだろう?
「あなたの苦しみに比べたら大したこと無い」
オレが憎かったんだろう?
「それ以上に愛してる。ずっと求めて焦がれて苦しんで愛し続けてる」
……………
この包まれる感じ。
高耶には覚えがあった。
欲しかったのはこれだ。
ずっと求めていたのは───……。
なんでこんなにあたたかいんだろう。
おれはこんなものをずっとおまえに貰っていたのか。
今までどれだけのものをおまえから貰ってきたんだろう
「それ以上のものをあなたが与えてくれた」
体を離した直江が真摯な瞳で言う。
「あなたには先に謝っておきます」
高耶はその言葉の意味が解らず首をかしげた。
「すぐにでもあなたのところへ行きたいけれど、今は自分の身体すら満足に動かせない」
直江の大きな手が高耶の瞼に掛かっていた前髪を梳くようにして除けた。
それが気持ちよくて、高耶は静かに目を瞑る。
すると直江は、額に口づけてきた。
そしてこめかみに。次は頬に。
次々とやさしい口づけが降る。
こんなこと拒まなくてはいけない。
自分は直江の望むようにはしてやれない。
直江に身体は許してやれない。
見返りは与えてやれないはずだった。
けれどもし、自分を想って愛してくれているこの男が、これをしなくてはもう苦しくて続けていけないというのなら。生きていけないというのなら。
もう、拒めない。
これ以上この男を苦しめられない。
彼を殺さないために、例え自分が死ぬような目にあっても。
なおえ………
何より今は、自分が男の行為を求めている。
この行為を受けたらきっと、自分は今までの自分とは違うものになる。
この男は今までいた孤独と苦しみの世界から、きっとどこかへと連れ去ってくれる。
苦しみのない、天上の世界へ。
「あなたときちんと向き合えるようになって、必ず迎えに行くから」
直江は口づけを止めない。
「だから約束してください。離れている間」
けれど明らかに唇だけは避けている。
高耶は少しだけ、瞳を開いた。
「もっと俺を求めて」
求めてる
「焦がれて」
焦がれてる
「苦しんで」
苦しんでる
「愛して」
あい…し……
これは、直江の望みなのだろうか。
それともオレの望みなのだろうか。
あとすこし動けば唇と唇が触れ合う距離で、高耶はそんなことを考えていた。
中編 ≪≪