ワッハッハッハッ
大きな身体をゆすって大きな声で笑っているのは、ここらあたりの職人連中には名の通った大親分だ。
「まあまあ、呑みなさい」
大きな手で大きな徳利を差し出してくる。
「……ありがとうございます」
景虎の手の内の猪口に、なみなみと酒が注がれた。
自身も腕のいい職人である親分は、景虎個人の数少ない知人でもある。
現生においては飾り職を生業としている景虎だったが、旅に出ることが多いせいでなかなか仕事がこなせない。
そんな景虎を"腕のいい職人には悪癖のひとつやふたつあって当然だ"と庇ってくれる、恩人のような存在なのだ。
だからわざわざ元旦を選んで年賀の挨拶にやってきたのだが、あがれあがれと勧められて結局酒までご馳走になっているのである。
「あれ、もうないか。おい、ヤス!」
その手にした徳利の殆どを自分の腹に収めてしまった親分が奥に向かって大声で呼ぶと、元気のいい返事とともに景虎の見知らぬ若者が顔を出した。
「こういうものはな、無くなる前に察して持ってくるものだ」
「へえっ、すんませんっ」
頭をへこっと下げた後で、バタバタと下がっていく。
「新しいお弟子さんですか」
「まあな」
何か曰くありげな笑みを浮かべた親分は、次の言葉を告げるのにヤスが戻るのを待った。
新しい酒はすでに奥で用意されていたらしく、ヤスが引き返すようにして戻ってくると、親分はヤスの背中を力強く叩きながら言った。
「何でもするからうちに置いてくれって言われてな、最初は断ったんだ。なあ?」
「へえ」
叩かれた反動で盆の上の徳利が傾いたから、慌てて手で支えながらヤスが答える。
けれどその平手をくらうことすら嬉しいといった感じで、喋りながら酌を始めた。
「お断りされてから一週間こちらに通いつめまして、おとついようやくお許しがでたわけなんです」
まずは親分の盃を満杯にすると、景虎にもたっぷりと注いでくれる。
「どうしても、親分さんのそばで働きたかったんで」
以前、困っているところを親分に助けてもらったことがあるそうだ。どうやら親分の職人としての技術を学びたいというよりは、その人柄に惚れてしまったらしい。
「一週間も通い詰めるなんて、良い性根をなさってる」
景虎はそう褒めた。
すると、
「いえ、そんな……」
照れて笑うその表情が、なんとも初々しい。
「けれど、この身は一生、親分さんに捧げるつもりでいるんです」
一生とは大きく出たなと景虎が驚いていると、親分は半眼になって手を横に振っている。
「今だけ、今だけ。あんたも知ってるだろう?うちの馬鹿倅のこと」
親分には目に入れても痛くないほどに溺愛する、ひとり息子がいる。自分の跡取りにするのだと、持てる技術の全てを注ぎ込んで育てたのだが、一昨年、何の前触れもなく家を出て行ってしまった。今では立派に独立して、大店相手に取引までしているそうだが、親分は未だにその時のことを根に持っているらしい。
「若い者の面倒なんてものはね、見るだけ損だね」
「親分さん……」
何か言いたげな顔をしたヤスを、なんだい、と親分は無下にする。
「いえ。あっしの決意は働きで証明して見せやす」
「そうかい」
ところが、無表情を装ってヤスを見つめる親分の瞳は、親が子を見つめる瞳そのものだ。愛おしくてしょうがないといった感じが伺える。
景虎は思わず笑ってしまった。
「なんだい」
「ならばどうして、彼を置いてやることにしたんです?」
「……………」
実はこの親分は、先ほど馬鹿と呼んだ息子がたまに実家に帰ってくる度、近所の連中を呼び集めて酒盛りを開いているのだ。立派に成長した息子を、周囲に自慢したくてしょうがないのだろう。
「なんだかんだ言って、可愛いのでしょう?」
「それを言っちゃお仕舞ぇよ」
親分は拗ねたように言って、手中の盃を飲み干した。
その一部始終を聞いていたヤスは、親分の空になった盃を満面の笑みで満杯にした。
土産の酒まで持たされて、家を出た頃にはもう暗くなっていた。
供も提灯も断って帰途についた景虎は、暗い闇の中をスタスタと歩いていく。
うまい酒を飲んだから、今夜はゆっくりと眠れそうだ。
ところが自宅の前まで来て、家の中に何者かの気配を感じ取った瞬間、景虎の表情は一気にきつくなった。普通なら懐に忍ばせた合口にでも手をやるところだが、景虎はそのほろ酔いの身体に《力》を溜めつつ、静かに戸を引く。
「誰だ」
警戒心をむき出しにした景虎の声に、部屋の中の男は物怖じせずに応えた。
「こんな時間まで、どちらにいらしてたのですか」
聞き覚えのあるその声に、景虎は安堵とも落胆とも取れるため息を洩らす。
「………直江か」
「ご無沙汰しております」
無沙汰と言うほど、間は空いていないと思う。少なくとも夜叉衆の中では、一番最近に見た顔だ。けれどそのことはあえて言わなかった。
「灯りくらい、つけたらどうだ」
手にしていた酒を置いて火を入れる景虎を、直江は黙って見つめている。
「こんなところにいて良いのか」
元日の夜だ。直江には過ごすべき家族がいる。
けれど今日は、自分に会いにくるときには脱げと言ってある黒羽織を着込んだままの姿だ。
どうせまたどこかで死体が出たとかなんとか言って、強引に家を出てきたのだろう。
「挨拶に参ったのです」
そう言うと、直江は古臭い手順で年始の挨拶を始めた。
今やこんなことは、城内でも行われていないのではないだろうか。
それが終わると、
「では帰ります」
と言って立ち上がる。
本当にそのためだけにきたらしい。
景虎は反射的に土産の酒を手に取った。けれど告げるべき言葉が見つからない。
「直江」
「───はい」
すでに履物に足を置いていた直江は、いつもの生真面目な顔で振り返った。
「………越後の酒だそうだ」
景虎は酒を直江の前に置いた。
「………?」
時折とてつもなく鈍くなるこの男には、その意味が伝わらないらしい。
「忙しいのならいいのだが………」
と呟くように言った景虎の言葉でようやく、わかった、という顔をした。
「いえ、頂いていきます」
焦ったように言う直江を横目にみて、景虎は立ち上がる。
「ならばいま支度を………」
と言うと、不意に腕を掴まれた。
「主人にそのようなことをさせるわけには参りません。ここは私が」
そう言って、流しの前に立つ。
曲がりなりにも武家の跡継ぎなのだから、普段は台所に立つことなどないのだろう。
長屋の端の狭い家だから、まる見えの後姿が相当困った様子で、思わず意地悪く観察してしまう。
それでもなんとか準備が整ったらしく、やっと酒にありつけることができた。
直江はその冷酒をひとくちだけ含んで、
「さすがに味が違いますね」
とかなんとか調子のいいことを言っているが、本当にわかっているのかどうか。
その言葉には答えないでいると、今度は別の話題を持ち出してきた。
「越後は今頃、雪でしょうか」
実は直江は、今生ではまだ一度も越後を訪れたことはない。
「そうだな」
きっとその雪解けの水で作られたであろう酒を味わいながら、景虎は答えた。
越後の雪や酒や、いろいろなことを思い出しながらふと直江をみると、同じように懐かしむような表情になっている。
その表情が、穏やかな微笑を伴っていることに直江は自分で気づいているのだろうか。
そして何故、自分の口元も同じように緩んでいるのか。
これは決して、酒のせいでも思い出のせいでもないのだと断言できる。
こんなにも胸の内があたたかいのは、いま、ひとりでないからだ。
───この身は一生、親分さんに捧げるつもりでいるんです
───なんだかんだ言って、可愛いのでしょう?
普段はめったに火をともさない行灯のあかりが、ゆらゆらとふたりの顔を照らしていた。
親が子を想うことに理由などないように、自分が何かを想うことにもきっと理由は必要ない。この男が抱く、想いにも。
数年前にはまだまだ新米同心といった感じだった直江も、今では黒羽織も板について頼もしくさえ見える。日に日に成長していくこの男をみていると、自分の時間も流れているのだということに、改めて考えつく。
今年は、どんな年になるだろうか。
(おまえにとって、よい年になるといい)
そう思った景虎の心を読んだかのように、直江が盃を掲げた。
「あなたにとって、よい年でありますように」
驚いて、小さく息をとめた景虎も、ややしてゆっくりと盃を持ち上げた。
「互いにとって、だ」
「………景虎様」
しばらく相手の瞳を見つめあった後で、ふたりは同時にその盃を空にした。
大きな身体をゆすって大きな声で笑っているのは、ここらあたりの職人連中には名の通った大親分だ。
「まあまあ、呑みなさい」
大きな手で大きな徳利を差し出してくる。
「……ありがとうございます」
景虎の手の内の猪口に、なみなみと酒が注がれた。
自身も腕のいい職人である親分は、景虎個人の数少ない知人でもある。
現生においては飾り職を生業としている景虎だったが、旅に出ることが多いせいでなかなか仕事がこなせない。
そんな景虎を"腕のいい職人には悪癖のひとつやふたつあって当然だ"と庇ってくれる、恩人のような存在なのだ。
だからわざわざ元旦を選んで年賀の挨拶にやってきたのだが、あがれあがれと勧められて結局酒までご馳走になっているのである。
「あれ、もうないか。おい、ヤス!」
その手にした徳利の殆どを自分の腹に収めてしまった親分が奥に向かって大声で呼ぶと、元気のいい返事とともに景虎の見知らぬ若者が顔を出した。
「こういうものはな、無くなる前に察して持ってくるものだ」
「へえっ、すんませんっ」
頭をへこっと下げた後で、バタバタと下がっていく。
「新しいお弟子さんですか」
「まあな」
何か曰くありげな笑みを浮かべた親分は、次の言葉を告げるのにヤスが戻るのを待った。
新しい酒はすでに奥で用意されていたらしく、ヤスが引き返すようにして戻ってくると、親分はヤスの背中を力強く叩きながら言った。
「何でもするからうちに置いてくれって言われてな、最初は断ったんだ。なあ?」
「へえ」
叩かれた反動で盆の上の徳利が傾いたから、慌てて手で支えながらヤスが答える。
けれどその平手をくらうことすら嬉しいといった感じで、喋りながら酌を始めた。
「お断りされてから一週間こちらに通いつめまして、おとついようやくお許しがでたわけなんです」
まずは親分の盃を満杯にすると、景虎にもたっぷりと注いでくれる。
「どうしても、親分さんのそばで働きたかったんで」
以前、困っているところを親分に助けてもらったことがあるそうだ。どうやら親分の職人としての技術を学びたいというよりは、その人柄に惚れてしまったらしい。
「一週間も通い詰めるなんて、良い性根をなさってる」
景虎はそう褒めた。
すると、
「いえ、そんな……」
照れて笑うその表情が、なんとも初々しい。
「けれど、この身は一生、親分さんに捧げるつもりでいるんです」
一生とは大きく出たなと景虎が驚いていると、親分は半眼になって手を横に振っている。
「今だけ、今だけ。あんたも知ってるだろう?うちの馬鹿倅のこと」
親分には目に入れても痛くないほどに溺愛する、ひとり息子がいる。自分の跡取りにするのだと、持てる技術の全てを注ぎ込んで育てたのだが、一昨年、何の前触れもなく家を出て行ってしまった。今では立派に独立して、大店相手に取引までしているそうだが、親分は未だにその時のことを根に持っているらしい。
「若い者の面倒なんてものはね、見るだけ損だね」
「親分さん……」
何か言いたげな顔をしたヤスを、なんだい、と親分は無下にする。
「いえ。あっしの決意は働きで証明して見せやす」
「そうかい」
ところが、無表情を装ってヤスを見つめる親分の瞳は、親が子を見つめる瞳そのものだ。愛おしくてしょうがないといった感じが伺える。
景虎は思わず笑ってしまった。
「なんだい」
「ならばどうして、彼を置いてやることにしたんです?」
「……………」
実はこの親分は、先ほど馬鹿と呼んだ息子がたまに実家に帰ってくる度、近所の連中を呼び集めて酒盛りを開いているのだ。立派に成長した息子を、周囲に自慢したくてしょうがないのだろう。
「なんだかんだ言って、可愛いのでしょう?」
「それを言っちゃお仕舞ぇよ」
親分は拗ねたように言って、手中の盃を飲み干した。
その一部始終を聞いていたヤスは、親分の空になった盃を満面の笑みで満杯にした。
土産の酒まで持たされて、家を出た頃にはもう暗くなっていた。
供も提灯も断って帰途についた景虎は、暗い闇の中をスタスタと歩いていく。
うまい酒を飲んだから、今夜はゆっくりと眠れそうだ。
ところが自宅の前まで来て、家の中に何者かの気配を感じ取った瞬間、景虎の表情は一気にきつくなった。普通なら懐に忍ばせた合口にでも手をやるところだが、景虎はそのほろ酔いの身体に《力》を溜めつつ、静かに戸を引く。
「誰だ」
警戒心をむき出しにした景虎の声に、部屋の中の男は物怖じせずに応えた。
「こんな時間まで、どちらにいらしてたのですか」
聞き覚えのあるその声に、景虎は安堵とも落胆とも取れるため息を洩らす。
「………直江か」
「ご無沙汰しております」
無沙汰と言うほど、間は空いていないと思う。少なくとも夜叉衆の中では、一番最近に見た顔だ。けれどそのことはあえて言わなかった。
「灯りくらい、つけたらどうだ」
手にしていた酒を置いて火を入れる景虎を、直江は黙って見つめている。
「こんなところにいて良いのか」
元日の夜だ。直江には過ごすべき家族がいる。
けれど今日は、自分に会いにくるときには脱げと言ってある黒羽織を着込んだままの姿だ。
どうせまたどこかで死体が出たとかなんとか言って、強引に家を出てきたのだろう。
「挨拶に参ったのです」
そう言うと、直江は古臭い手順で年始の挨拶を始めた。
今やこんなことは、城内でも行われていないのではないだろうか。
それが終わると、
「では帰ります」
と言って立ち上がる。
本当にそのためだけにきたらしい。
景虎は反射的に土産の酒を手に取った。けれど告げるべき言葉が見つからない。
「直江」
「───はい」
すでに履物に足を置いていた直江は、いつもの生真面目な顔で振り返った。
「………越後の酒だそうだ」
景虎は酒を直江の前に置いた。
「………?」
時折とてつもなく鈍くなるこの男には、その意味が伝わらないらしい。
「忙しいのならいいのだが………」
と呟くように言った景虎の言葉でようやく、わかった、という顔をした。
「いえ、頂いていきます」
焦ったように言う直江を横目にみて、景虎は立ち上がる。
「ならばいま支度を………」
と言うと、不意に腕を掴まれた。
「主人にそのようなことをさせるわけには参りません。ここは私が」
そう言って、流しの前に立つ。
曲がりなりにも武家の跡継ぎなのだから、普段は台所に立つことなどないのだろう。
長屋の端の狭い家だから、まる見えの後姿が相当困った様子で、思わず意地悪く観察してしまう。
それでもなんとか準備が整ったらしく、やっと酒にありつけることができた。
直江はその冷酒をひとくちだけ含んで、
「さすがに味が違いますね」
とかなんとか調子のいいことを言っているが、本当にわかっているのかどうか。
その言葉には答えないでいると、今度は別の話題を持ち出してきた。
「越後は今頃、雪でしょうか」
実は直江は、今生ではまだ一度も越後を訪れたことはない。
「そうだな」
きっとその雪解けの水で作られたであろう酒を味わいながら、景虎は答えた。
越後の雪や酒や、いろいろなことを思い出しながらふと直江をみると、同じように懐かしむような表情になっている。
その表情が、穏やかな微笑を伴っていることに直江は自分で気づいているのだろうか。
そして何故、自分の口元も同じように緩んでいるのか。
これは決して、酒のせいでも思い出のせいでもないのだと断言できる。
こんなにも胸の内があたたかいのは、いま、ひとりでないからだ。
───この身は一生、親分さんに捧げるつもりでいるんです
───なんだかんだ言って、可愛いのでしょう?
普段はめったに火をともさない行灯のあかりが、ゆらゆらとふたりの顔を照らしていた。
親が子を想うことに理由などないように、自分が何かを想うことにもきっと理由は必要ない。この男が抱く、想いにも。
数年前にはまだまだ新米同心といった感じだった直江も、今では黒羽織も板について頼もしくさえ見える。日に日に成長していくこの男をみていると、自分の時間も流れているのだということに、改めて考えつく。
今年は、どんな年になるだろうか。
(おまえにとって、よい年になるといい)
そう思った景虎の心を読んだかのように、直江が盃を掲げた。
「あなたにとって、よい年でありますように」
驚いて、小さく息をとめた景虎も、ややしてゆっくりと盃を持ち上げた。
「互いにとって、だ」
「………景虎様」
しばらく相手の瞳を見つめあった後で、ふたりは同時にその盃を空にした。
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