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 昨夜から早朝まで全国的に降り続いた雪は、下校時間になっても溶けきらずに残っていた。
 神奈川では有名な私立小学校の校門のすぐ脇で、立ち尽くす女の子がいる。
 2、3年生くらいだろうか。乏しい表情の奥に困惑の色が浮かんでいる。
 そこへ通りかかったクラスメイトが声をかけた。
 標準よりは大きい背丈に、高く結ったポニーテール。厳しいはずの規則を破るその髪型が、彼女の気の強さをよくあらわしている。
「ころんじゃった?」
「………うん」
 彼女はポケットからハンカチをだした。
「あ~あ、ぬれちゃったわね」
 ハンカチでクラスメイトの身体についた雪を払う。
「………ありがと」
 女の子はやはり困惑した顔のままで小さく言った。
「ミサちゃんってかえり、バスだよね。いっしょにかえろうよ」
 それを聞いたミサは迷った末に言った。
「やめとく」
「なんで?」
「だってアヤちゃん、こわいんだもん。ユウレイとおはなしするから」
「………え?」
 ずばり、言われて何も言い返せない。
「じゃあ、またあしたね」
 ばいばい、と言って去っていくミサの背中を、綾子は見送るしかなかった。

 綾子は小さい頃から、誰もいないところに話しかけるし、急に変な声を出したり、何かに憑かれたように倒れたりした。
 こればかりはどうしようもない。体質のようなものなのだから。
 それでも根っから明るい性格だ。協調性にも長けている。幼い頃はうまくやっていた。
 けれど、景虎の安否がわからないと聞かされた瞬間から、さすがの晴家もそれまで通りの生活ができなくなった。
 前生ではその殆どを病院で過ごし、幼いまま亡くなった晴家は、景虎の安否についても知らされていなかったのだ。
 初めて知ったその事実にショックを受けて《力》が安定しなくなり、散々雑霊に悩まされた。
 結果、学校を休みがちになり、カウンセリングなどに通わされたりもした。
 なんとか立ち直りはしたものの、そのときのしこりが未だ周囲の人々との間から消えない。
 先程のミサのようにストレートに言ってくれたほうがまだよかった。
 面と向かって言うでもなく、けれど明らかに避けられたほうが実はこたえるのだ。
 孤独には四百年かけて慣れてきたつもりだったけれど、この幼い宿体は寂しさを訴える。
 にじむ涙をごまかそうと空を見上げると、白いものがちらちらと舞い降りてきた。その水の結晶がひとつ地面に降り落ちるたびに、綾子の心にも見えない何かが重く積もっていくような気になってくる。
 今夜も夜通し、雪なのだろうか。
「晴家」
 不意に耳に入ってきた暖かい声に、綾子の顔はぱあっと明るくなった。
「いろべさん!」
 少し先の電信柱の横に、色部が立っていた。
 未だ残る雪と泥水に足をとられながら駆け寄ると目線が同じ高さになるようにしゃがみこんで大きな手で頭を撫でてくれる。
「なにかじけんでもあったの?」
「私用で近くまで来たからな」
「なおえはどうだった?こないだあうっていってたでしょう?どうしてた?」
「一時期より、だいぶ落ち着いていたよ」
 色部の暖かさは400年前となんら変わらない。
 手を引かれて歩きながら、綾子は久しぶりに故郷へ帰ってきたような気分がした。

II ≪≪     ≫≫ IV
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 繁華街。
 明け方も近いというのに閉店間際の店内で盛り上がる一団があった。
「よっし!!このまま日が昇るまでいくぞ~~~!!」
「きゃあぁ~~~いこいこ~~~~!!」
 派手な化粧に露出の多い服装の女性数名に囲まれた男性は、髪も眼も肌も色素が薄い。
 明らかに外国に血が混じった顔立ちをしていた。
 髪型にも服装にもかなり気を使っている。
 そのせいか、実年齢よりだいぶ若くみられることが多かった。
 名刺の肩書きは「輸入会社社長」。
 とはいえ今日知り会ったばかりの彼女たちにはそれが本当かどうかを知る術はない。
「あの、そろそろ閉店なんすけど……」
 という店員の言葉にいっせいにブーイングが起きた。
「ええ~~~~」
「しんじらんな~~~~い」
「しょーがねえ、開いてる店探すか」
 会計をカードで済ませると、まだブーイングを続けている面々を引き連れて外へ出た。
 すると。
 都会の狭く暗い空から、灰色がかった雪がはらはらと落ち始めていた。
「わあっ、ゆきだ~」
「ほんとだあ~~」
「どうりで冷え込むわけだ」
 やだなあ、さむいなあといいながら、心なしかみんな浮かれた気分になっているのがわかる。
「積もったら雪だるまいっしょにつくろーよー」
「あはは、なつかしーねー」
 訊けば彼女たちは同郷の出で、雪国で生まれ育ったのだという。
 それぞれ故郷を思うかのように、降りしきる雪を見つめている。
 男もふと昔を思い出しそうになって、慌てて振り払った。
 深く積もった雪には、いやな思い出ばかりがありすぎる。
「ほら、くさくさしてねーで次行くぞ!!」
「えー、でもどこいくのー」
「近くに知り合いの店があるから、無理やり開けさせちゃる!!!」
「いやあ~しゃちょ~っ!かっこいいっ!」
「夜明けどころか昼まで行くぞっ!!」
 長秀は、自分の気持ちを盛り上げるために無理やり声を張り上げた。

I ≪≪     ≫≫ III


 昼間、快晴の空の下、庭をめいっぱい走り回って遊んだ息子は歯を磨きながらとても眠そうだ。
「今日も美弥の隣で寝るの?」
「うん」
 最近は妹の世話を焼くのが楽しいようで、寝るときも隣に寝たがる。
 娘はまだ自分の隣で寝たがるから、必然的に息子とは娘を挟んで離れて眠ることになるのだが、そんなことも気にならないらしい。
 昔はトイレの中にまでついて来たがったものだけど、と笑みがこぼれた。
 風邪を引かないようにうがいを念入りにさせてから、一緒に寝室へと向かう。
 今日は珍しく早く帰った夫が娘を寝かしつけてくれたのだが、一緒になって寝てしまってらしく起きて来なかった。
 事業を営んでいる夫は多忙だ。なかなか家で過ごす時間が取れない。
 だから家にいられる時は出来るだけ子供たちと一緒に過ごしてもらうように決めていた。
 その分夫婦の会話は減ってしまうけれど仕方ない。子供たちにはなるべく寂しい思いはさせたくない。
 寝室へ入ると、息子は先に寝てしまった父親と妹の間に割って入るようにして布団に潜り込み、目の前にある妹の頭を満足そうに撫でてから眼を閉じた。
 目にした人間すべてを笑顔にしてしまうような、可愛らしい仕草。
 それを見届けてから、リビング戻って照明のスイッチを切った。
 暗くなった部屋で、ふと家族写真が眼に入る。
 今年の夏、庭で取ったものだ。
 たかだか半年しか経っていないのに、額縁の中の子供達はずいぶんと幼くみえる。
 この調子では一年後は一体どうなってしまうことだろう。
 想像は十年後、二十年後と膨らむばかりだ。
 もちろん反抗期だってきっと来る。ケンカもたくさんするだろう。
 けれど、今の時期の愛しさを思えば、どんなトラブルも乗り越えていけるのではないかと思う。
 もう一度、ガラス戸の鍵を確認しようとカーテンをめくると、庭に白いものがみえた。
 雪だ。
 いつの間に降り出したのか、すでにうっすらと積もり始めている。
 明日、この雪をみて大はしゃぎする息子と娘が眼に浮かんだ。
 いつものように早朝に出かけてしまうであろう夫のために、ふたりの笑顔を写真に撮ってあげようと決めてカーテンを閉めた。
 寝室に戻るとそっくりの寝顔が3つ並んでいる。
 その寝顔たちを起こさないようにゆっくり布団に潜り込むと、なんともいえない安堵感が胸に広がった。
 穏やかな寝息の三重奏を聴きながら、佐和子はそのまま瞳を閉じた。

≫≫ II


 他人を愛することのできない人間は、死んでいるのと同じなのだそうだ。だとしたら自分は、死して後に景虎を愛したことで初めて生を得たことになる。
 車をホテルへと走らせながら、直江は疲れきった頭で考える。
 いまは、その生を失いかけているのではないかと。

 景虎を愛しいと思い、同時に憎いと思う。
 そのことにもう、疲れていた。
 ずいぶんと長い間、身体の全て、全細胞で彼を求め、同時に拒み続けてきた。景虎に翻弄され、同時に反発してきた。そのことの無意味さが、いまは直江をむなしくする。
 意味を求めていた訳ではない。彼の前に立つとそうならざるを得なかっただけ。けれどいつの間にかそれは、直江に生の動機を与えていたのだ。

 今は呼吸ひとつするのにも疲労が伴う。
 結局いつもの使命やら規範やら何の力も持たないような薄っぺらいものばかりに頼ってばかりいるのだけれど、慣れ親しんだこのオートマティックな行動基準は、ほんのわずかだが安心感を与えてくれる。同時に、自己嫌悪という多大な副作用を引き起こすのだけれど。
 ホテルの地下にある駐車場はひどく暗かった。
 駐車を終えた直江がサイドブレーキを引いて顔をあげると、目の前の窓ガラスには焦燥しきった男の顔が映っている。
 ひとりよがりの人格障害者。
 どこからか、そんな声が聞こえてきた。
 いつだって自分、自分、自分。自分が全て。世界の中心。自分という人間がこの世の事象のほんのわずかな部分を辛うじて担っているだけだという事実を認められない。自分で自分を愛しすぎて、同じように愛してくれない世間をずっと恨んでいる。
 そしてたぶん、自分が彼を想うのと同じ様に、自分を想ってくれない彼をずっと恨み続けている。
(見返りが欲しいと言ってるんじゃない)
 そんなものは欲しくもない。
 きっと自分だけがこんな目にあうのが悔しくて、彼にも同じ思いを味あわせたいのだ。
 彼が欲しくて欲しくて堪らない自分の苦しみと同じものを、彼にも味あわせたい。
 彼を純粋に愛しいと思う気持ちが自分の中に無いわけではないが(それがなければこうはならなかった)、自分が景虎に執着するのは自己愛の延長という意味合いが強いのだと、直江は認識していた。
 ずっと、そう思っていた。

 あのとき、気付いてしまったのだ。
 鏡の中の楽園を捨てるという選択は、直江にしてみればこの先いつまで続くかもわからない苦しみや痛みを選択するというのと同じだった。自分がどれほど無様であろうと辛かろうと、彼の隣で苦しみ続けることを、自分は放棄すらできないのだと思い知った。
 これは自己愛とかそういう問題ではなくて、根本的に自分はもう彼から逃れられないのだと。
 いつしか自分は、世界を跪かせるあのひとを屈服させることで世界を手に入れたかったのではなく、世界を手に入れてあのひとこそを屈服させたいと思っていたのではないか。
 世界から特別だと思われる手段として、彼を手に入れたいのではなく、彼の特別な存在でいたいがために、世界を手に入れなければならなくなったのではないか。
 自己愛に端を発したはずの感情は、いつの間にか全く違うものに変容していたのかもしれない。
 
 許せないのは、彼が自分のその葛藤をいつもと同じように背中で受け止めたことだ。
 自分の苦しみとか痛みとかに、彼は全く興味を持っていない。ただそれが自分のためであれば、どんなものでもいいのだ。
 背後でこれほど自分がのた打ち回っていても、振り返ろうともしない。負ける気も抱かれてやる気も、あのひとの中には微塵もない。おまえなど取るに足らない人間のうちのひとりだとしか、言わない。
 そのことだって、もうずっと前からわかっていたはずなのに。
 景虎もまた人格障害者であることを直江は知っていた。
 自分自身に満足することがないから、自分自身を愛することの出来ないひと。彼はいつだって自身の存在理由を認められず、苦しんでいた。
 自分なんかにその穴埋めを求めても無駄だと彼も知っている。そうだろう。いつだって自分は口先ばかりで、勝ちたいだとか言って、やってることはなんだ。彼に八つ当たって傷つけて泣かせるだけで、勝つ気配すら無い。
 彼に手を伸ばしたりして、どうするつもりだったのか。
 おびえたような瞳が蘇る。
 こんな人間の手を、誰が取るというのだろう。
 かつて、彼が自分の手を必死に求めていたとき、馬鹿な自分が何をしたのかもう忘れてしまったというのだろうか。
 自分は彼に手を差し伸べることはしなかった。
 だから、彼の手は聖母へと伸びたのだ。

 虚無感が、直江を襲う。
 結局また、自分は景虎に対して何者にもなることはできないのだ。
 今までと同じように、敗け続けるだけ。背中を見つめ続けるだけ。
 二度と同じ過ちは繰り返さないと誓ったはずなのに、自分は何も変わっていない。まともな関係が築けない。
 せめて彼と笑顔で接することの出来た日々に戻れないかと考えてみて、でもそれもあまりに白々しく、想像するだけで笑いが漏れてくる。
 自分の醜さを再確認するだけの毎日。もうそんなこと、うんざりだ。
───おまえを縛ろうなんて、考えていない。
 縛る必要も無い。こんなになっても、自分はどうせ彼から眼をそらせない。
 彼の行動の全てにいちいち反応する自分に、いい加減もう飽きてもいい頃だ。
 彼の姿を見て勝ちたいと叫べば正解。
 そんな出来レースのような四百年。どうしようもなく無意味で、つまらない四百年。
 彼の言う通り、自分はずっと駄々をこね続けているのだ。
 自分の思い通りにならないことを、今も昔も、納得できないと喚いている。まるで子供がするように、手足をばたつかせ、涙を流しながら。
 そんなことをしたって、何も思い通りになることなどないのに。
 おもちゃ売り場の駄々っ子たちは、いったいその何割が望みを叶えるのだろう。
 自分を悩ませているその問題に、決定権を持つことの無い彼ら。権限はいつも、自分以外の誰かのもの。
 いつかそのことに気付いて、誰もが諦めを知るのだ。

 自分の心が冷えていくのがよくわかる。
 疲れのせいなのか、なんなのか。
 肉を切り裂かれるようなその痛みだけが直江を責めたてる。
 簡単に熾せるはずの火が、熾せなくなっていた。
 だから、身体も心もどんどん冷えていく。
 冷えて冷えて、そのうちに感覚もなくなりそうだ。
 けれど心が凍りつくほど、傷跡のような痛みが熱く、際立っていくように思えた。

 部屋に到着した直江は、キーを差し込んだ。
 中に入って照明をつけ、とりあえずタバコを一本取り出した。
 ライターで火を点けながら、二歩目を踏み出すのを躊躇った。
 どこもかしこも、彼の匂いが染み付いているような気がした。
 それは、簡単な掃除をしたところで消えてしまうようなものではないのだ。
 灰皿はどこにやっただろうかと部屋をみまわして、ベッド脇のサイドボードで視線をとめた。
「?」
 違和感を覚えた直江は近寄ってみて、目を瞠る。
 少し右上がりの字で書かれたメモ用紙が、そこにあった。
  『禁止』
 灰皿に、これみよがしに貼り付けられている。
(高耶さん……)
 きっと、自分の馬鹿げた未練たらしい行為に、必死に応えようとしてくれたのだろう。
 その姿が眼に浮かんで、直江は沸きあがる衝動を抑えきれなくなった。
「高耶さん……っ」
 今すぐあの場に戻って、彼を抱きすくめてしまいたかった。
 こんなどうしようもない男に、彼はまだ見当違いの期待をしている。
 そんな彼の希望を感じさせる行為があまりに無知すぎて、とても憎く、哀れで切なくて、狂おしいほどに愛しかった。
 いま、また自分は縛られた。
 大した労力も要らない、莫大な金がいるわけでもない、ましてや命をかける必要も無い、こんな些細な行為でも、彼が少しでも自分を思ってしたということが、直江を深く繋ぎとめる。
 認めたくは無いけれど、この精神が癒されていく感じはどんなに否定し拒絶してみてもきっと消えない。
 じっと耐えるようにしていた直江は、やがてその身体の強張りを解いた。
 見つめる高耶の文字が、冷え切っていた心をじんわりとあたためていく。
 メモ用紙を剥がして、灰を灰皿に落としながら、次はどうしてやろうかと考える直江の顔。
 その顔には、本当に久しぶりに、心の底からの微笑が浮かんでいた。


前編 ≪≪


『"普通の生活"とやらに、そろそろ見切りつける覚悟決めるんだな』
 千秋の部屋を出て、高耶は考える。
 そんなのは分かってる。
 強がりなどではなく、本当にその通りだと思うのだ。
 譲には申し訳ないとは思うが、ここまで《闇戦国》が活発化してくると、生活がどうとか悠長なことは言っていられない。ただ、今すぐに学校を辞めればいいという問題でもない。《魔王の種》の監視という意味では、譲の卒業までは籍を置いておいたほうが都合がいい。千秋にも引き続き、"小姑の小言"ごと監視を続けてもらうことになるだろう。
 それにいつか、譲にだってわかってもらえる時が来るはずだ。もし自分が全国の怨将を《調伏》して回らなければ、現代人へと被害が拡がるだけなのだから。
 更に言えば、そういう事情を全てわかっている譲は、恵まれているとすら言えた。
(美弥………)
 家を出るときの妹の表情が脳裏に蘇る。
 めずらしく家にいた父親も、こんな時間から出かけることに不審感を抱いているようだった。高耶に対しては後ろめたさがあるから、何も言っては来なかったけれど。
 そろそろ、手を打たなくてはいけない。
 "家族への暗示"。
 そんなこと、少し前の自分は考えもしなかったことだ。言われたって絶対にさせなかっただろう。
 それを今、自ら進んで施そうとしている。
(これでいいんだ)
 無理に変わろうとしなくても、どんどん変化している自分に、高耶は気付いていた。
 時々、自分でもついていけないほど急激に。
(これでいいんだろう?)
 高耶は無意識のうちに描いた男の輪郭に問いかけながら鍵を使って、昨晩その男が使用した部屋の扉を開けた。
 明かりをつけると、さほど広くない部屋に木製の椅子とシングルベッドがひとつ。
 床に塵ひとつ落ちていないのは直江が特別綺麗に使ったからという訳ではなく、清掃が入ったからのようだった。
 ベッドサイドの灰皿には、吸ったであろう煙草の吸殻もない。けれど、その煙がまだ、室内に残っている気がして、高耶は深く息を吸い込んだ。
 上着を脱いで無造作に椅子の上に放り投げると、そのままうつぶせでベッドに倒れこむ。
 新幹線の中で少し寝たせいか、この時間でも眠くはならなかった。
 真新しいシーツに顔をこすり付ける。そこにもやはり、直江の気配はない。
 けれど昨晩、確かに直江はここにいたのだ。
「……………」
 しばらくその体勢のまま動かずにいた高耶は、やがてむくりと起き上がった。
 そして大きくため息をつくと、シャワーを浴びるために洗面所へと入っていった。


 シャワーを浴び終えてバスルームから出てきた高耶は、椅子に掛かった上着のポケットから飲みかけのペットボトルを取り出すと、それを一気に飲み干した。それでもまだ足りなくて、備え付けの冷蔵庫を開けてみる。
 そこで─────
 息を止めた。
 重さを感知して料金を計算する古いタイプの冷蔵庫だったのだが、高耶が好んでよく飲む銘柄のビールにだけ、『禁止』と書かれたメモ用紙が貼られていたのだ。
「っ……………」
 よく知った筆跡に、心臓が掴まれたように痛くなった。
 以前にはよくこうやって未成年扱いされたものだが、関係が悪化してからはそういうこともなくなっていた。
 口うるさい直江にぎゃあぎゃあと文句を言ったことが思い出される。
 しばらく立ち尽くしていた高耶は、やがて冷蔵庫の前に屈みこむとその字に指で触れてみた。
 冷たいその感触は、まるで今の自分達の関係を表しているかのようだ。
 こんな風に、直江にしかできない行為をみせつけられると、どれだけ自分がそういう行為に飢えているかを再認識する。
 何で今更こんなことをするのか。
 あの男の行為の理由を考えるのは、もう無駄だとわかっているはずなのに、考えずにはいられない。
(なにを考えてる……?)
 こんなことをする直江の意図を必死に汲み取ろうと、高耶はじっと、その文字を見つめ続けた。



 翌朝、出掛けに千秋の部屋へ寄ってみたら、もうすでに出発した後だった。
 何も言わずにひとりで出ていってしまったことを多少不審に思いながら、ひとり監視現場に赴いたのに、そこにも姿は無く、疲れた様子の直江と所在なさげな八海が立っていた。
「景虎様」
 高耶の姿を見つけた八海はすぐに近寄ってくるが、直江はといえば一瞥をくれただけで挨拶もしてこない。
 けれど高耶も、自分から話しかけたりはしない。
 いきなり無言になってしまったふたりをみて、
「現状ですが……」
と八海が報告を始めるが、
「いい」
 高耶がとめた。
「直江にやらせろ」
 精一杯感情を抑えた口調で、高耶は言った。
 直接直江に命令しない高耶に戸惑いながら、困った風に八海が直江を見る。
 仕方なくといった感じで、直江は口を開いた。
 淡々とあったことだけを簡潔に言うその言葉遣いに、あのメモを残した直江の姿は想像もつかない。
 今、ポケットに入っているこの紙がなければ、夢だったのではないかと思える程だ。
 直江は状況を話し終えて、締めの言葉すら言わない。
「い、以上です」
 結局、そう言ったのは八海だった。
「……ご苦労だった」
「はっ」
「岩村城の軒猿から報告があった。蛇骨入道はやはり岩村御前との複合体となっているようだ」
 一揆の幹部を説得して蛇骨入道を岩村城へと移動させる方針を告げると、
「さっさと乗り込んだほうがいい」
 直江がすぐに反発した。
「あなたもあの大銀杏を見たでしょう。説得などと悠長なことを言っているうちに、一般人に被害がでるかもしれない」
 それは昨日も散々電話で言われたことだ。いい加減うんざりといった顔をつくって高耶は直江を見る。
 どうせ直江は自分に素直に従いたくないだけなのだとわかっている。きっと高耶が今すぐ乗り込もうと言えば、今度は逆の意見を言ってくるに違いない。
「暴走はないとオレが判断したんだ。いつまでも駄々こねるような真似はするな」
「駄々?」
 眼をむいた直江が、高耶を見た。
 その冷たい瞳にやっと感情らしきものが宿る。
 その感情の種類を嗅ぎ取りながら、高耶も直江を見つめ返す。自然と腹に力が入った。
「いったいどんな根拠で暴走がないというんです?お得意の"勘"ですか」
「"勘"なんかじゃない。集まった情報と現状を見て、判断したんだ」
「やっと暗示が使えるようになったばかりの人間の、安易な状況判断を信じろというのですか」
「………それでも、お前のよりはマシだろう?」
 眼を細めた高耶の様子に、直江は驚いたように口をつぐんだ。その表情は、恐怖に近い。
「……さ、寒いので何か温かいものでも買ってきます」
 その緊迫した雰囲気にいたたまれなくなった八海は、とうとう逃げ出してしまった。
 ふたりきりになると、直江はすぐに視線を逸らしてしまう。その横顔は苦しそうだ。
 沈黙が、重い。押しつぶされそうになる。
 こうなるのが嫌だったから、千秋と一緒に来ようと思ったのに。
───かみさんのご機嫌伺いに子供使うような真似………。
 そんなつもりはなかったけれど、今はふたりきりになりたくない。
 高耶はポケットに入っているメモ用紙を握り締めた。
 いや、なりたくない訳じゃない。
 ふたりきりになると、何かを期待してしまう自分が嫌なのだ。
 直江は何を考えているのか、自分の左手をじっとみつめていた。
 怪我でもしたのかと気になってその様子を見ていたら、不意にその手をこちらへ伸ばしてきた。
 高耶がびくっと身体を揺らして身構えると、傷ついたような瞳でその手を引っ込める。
───直江……?」
 結局八海が戻るまで、直江は黙り込んだままだった。
 だから、高耶もそれ以上は追求しなかった。
 近頃、やっとわかってきたことがある。
 たぶん、それが自分達のルールなのだ。お互い、決して真正面を向き合うことはしない。訊きたいことがあっても素直に口にしたりはしない。
 相手に背を向けて、けれど背中の気配だけで必死にその様子を探るのだ。
 やがて千秋が到着し、直江はいったんホテルへ引き上げることになる。
 去り際、高耶は直江の無表情の中にどこか思いつめたものを感じ取っていた。
(鏡があればいいのに)
 不意に高耶はそう思った。
 もし自分の目の前に大きな鏡があれば、隣にいようが、背後にいようが、振り返ることなく様子を伺える。
 高耶は、ポケットの中のメモ用紙が、鏡に映った直江からのアイコンタクトのように思えた。


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