他人を愛することのできない人間は、死んでいるのと同じなのだそうだ。だとしたら自分は、死して後に景虎を愛したことで初めて生を得たことになる。
車をホテルへと走らせながら、直江は疲れきった頭で考える。
いまは、その生を失いかけているのではないかと。
景虎を愛しいと思い、同時に憎いと思う。
そのことにもう、疲れていた。
ずいぶんと長い間、身体の全て、全細胞で彼を求め、同時に拒み続けてきた。景虎に翻弄され、同時に反発してきた。そのことの無意味さが、いまは直江をむなしくする。
意味を求めていた訳ではない。彼の前に立つとそうならざるを得なかっただけ。けれどいつの間にかそれは、直江に生の動機を与えていたのだ。
今は呼吸ひとつするのにも疲労が伴う。
結局いつもの使命やら規範やら何の力も持たないような薄っぺらいものばかりに頼ってばかりいるのだけれど、慣れ親しんだこのオートマティックな行動基準は、ほんのわずかだが安心感を与えてくれる。同時に、自己嫌悪という多大な副作用を引き起こすのだけれど。
ホテルの地下にある駐車場はひどく暗かった。
駐車を終えた直江がサイドブレーキを引いて顔をあげると、目の前の窓ガラスには焦燥しきった男の顔が映っている。
ひとりよがりの人格障害者。
どこからか、そんな声が聞こえてきた。
いつだって自分、自分、自分。自分が全て。世界の中心。自分という人間がこの世の事象のほんのわずかな部分を辛うじて担っているだけだという事実を認められない。自分で自分を愛しすぎて、同じように愛してくれない世間をずっと恨んでいる。
そしてたぶん、自分が彼を想うのと同じ様に、自分を想ってくれない彼をずっと恨み続けている。
(見返りが欲しいと言ってるんじゃない)
そんなものは欲しくもない。
きっと自分だけがこんな目にあうのが悔しくて、彼にも同じ思いを味あわせたいのだ。
彼が欲しくて欲しくて堪らない自分の苦しみと同じものを、彼にも味あわせたい。
彼を純粋に愛しいと思う気持ちが自分の中に無いわけではないが(それがなければこうはならなかった)、自分が景虎に執着するのは自己愛の延長という意味合いが強いのだと、直江は認識していた。
ずっと、そう思っていた。
あのとき、気付いてしまったのだ。
鏡の中の楽園を捨てるという選択は、直江にしてみればこの先いつまで続くかもわからない苦しみや痛みを選択するというのと同じだった。自分がどれほど無様であろうと辛かろうと、彼の隣で苦しみ続けることを、自分は放棄すらできないのだと思い知った。
これは自己愛とかそういう問題ではなくて、根本的に自分はもう彼から逃れられないのだと。
いつしか自分は、世界を跪かせるあのひとを屈服させることで世界を手に入れたかったのではなく、世界を手に入れてあのひとこそを屈服させたいと思っていたのではないか。
世界から特別だと思われる手段として、彼を手に入れたいのではなく、彼の特別な存在でいたいがために、世界を手に入れなければならなくなったのではないか。
自己愛に端を発したはずの感情は、いつの間にか全く違うものに変容していたのかもしれない。
許せないのは、彼が自分のその葛藤をいつもと同じように背中で受け止めたことだ。
自分の苦しみとか痛みとかに、彼は全く興味を持っていない。ただそれが自分のためであれば、どんなものでもいいのだ。
背後でこれほど自分がのた打ち回っていても、振り返ろうともしない。負ける気も抱かれてやる気も、あのひとの中には微塵もない。おまえなど取るに足らない人間のうちのひとりだとしか、言わない。
そのことだって、もうずっと前からわかっていたはずなのに。
景虎もまた人格障害者であることを直江は知っていた。
自分自身に満足することがないから、自分自身を愛することの出来ないひと。彼はいつだって自身の存在理由を認められず、苦しんでいた。
自分なんかにその穴埋めを求めても無駄だと彼も知っている。そうだろう。いつだって自分は口先ばかりで、勝ちたいだとか言って、やってることはなんだ。彼に八つ当たって傷つけて泣かせるだけで、勝つ気配すら無い。
彼に手を伸ばしたりして、どうするつもりだったのか。
おびえたような瞳が蘇る。
こんな人間の手を、誰が取るというのだろう。
かつて、彼が自分の手を必死に求めていたとき、馬鹿な自分が何をしたのかもう忘れてしまったというのだろうか。
自分は彼に手を差し伸べることはしなかった。
だから、彼の手は聖母へと伸びたのだ。
虚無感が、直江を襲う。
結局また、自分は景虎に対して何者にもなることはできないのだ。
今までと同じように、敗け続けるだけ。背中を見つめ続けるだけ。
二度と同じ過ちは繰り返さないと誓ったはずなのに、自分は何も変わっていない。まともな関係が築けない。
せめて彼と笑顔で接することの出来た日々に戻れないかと考えてみて、でもそれもあまりに白々しく、想像するだけで笑いが漏れてくる。
自分の醜さを再確認するだけの毎日。もうそんなこと、うんざりだ。
───おまえを縛ろうなんて、考えていない。
縛る必要も無い。こんなになっても、自分はどうせ彼から眼をそらせない。
彼の行動の全てにいちいち反応する自分に、いい加減もう飽きてもいい頃だ。
彼の姿を見て勝ちたいと叫べば正解。
そんな出来レースのような四百年。どうしようもなく無意味で、つまらない四百年。
彼の言う通り、自分はずっと駄々をこね続けているのだ。
自分の思い通りにならないことを、今も昔も、納得できないと喚いている。まるで子供がするように、手足をばたつかせ、涙を流しながら。
そんなことをしたって、何も思い通りになることなどないのに。
おもちゃ売り場の駄々っ子たちは、いったいその何割が望みを叶えるのだろう。
自分を悩ませているその問題に、決定権を持つことの無い彼ら。権限はいつも、自分以外の誰かのもの。
いつかそのことに気付いて、誰もが諦めを知るのだ。
自分の心が冷えていくのがよくわかる。
疲れのせいなのか、なんなのか。
肉を切り裂かれるようなその痛みだけが直江を責めたてる。
簡単に熾せるはずの火が、熾せなくなっていた。
だから、身体も心もどんどん冷えていく。
冷えて冷えて、そのうちに感覚もなくなりそうだ。
けれど心が凍りつくほど、傷跡のような痛みが熱く、際立っていくように思えた。
部屋に到着した直江は、キーを差し込んだ。
中に入って照明をつけ、とりあえずタバコを一本取り出した。
ライターで火を点けながら、二歩目を踏み出すのを躊躇った。
どこもかしこも、彼の匂いが染み付いているような気がした。
それは、簡単な掃除をしたところで消えてしまうようなものではないのだ。
灰皿はどこにやっただろうかと部屋をみまわして、ベッド脇のサイドボードで視線をとめた。
「?」
違和感を覚えた直江は近寄ってみて、目を瞠る。
少し右上がりの字で書かれたメモ用紙が、そこにあった。
『禁止』
灰皿に、これみよがしに貼り付けられている。
(高耶さん……)
きっと、自分の馬鹿げた未練たらしい行為に、必死に応えようとしてくれたのだろう。
その姿が眼に浮かんで、直江は沸きあがる衝動を抑えきれなくなった。
「高耶さん……っ」
今すぐあの場に戻って、彼を抱きすくめてしまいたかった。
こんなどうしようもない男に、彼はまだ見当違いの期待をしている。
そんな彼の希望を感じさせる行為があまりに無知すぎて、とても憎く、哀れで切なくて、狂おしいほどに愛しかった。
いま、また自分は縛られた。
大した労力も要らない、莫大な金がいるわけでもない、ましてや命をかける必要も無い、こんな些細な行為でも、彼が少しでも自分を思ってしたということが、直江を深く繋ぎとめる。
認めたくは無いけれど、この精神が癒されていく感じはどんなに否定し拒絶してみてもきっと消えない。
じっと耐えるようにしていた直江は、やがてその身体の強張りを解いた。
見つめる高耶の文字が、冷え切っていた心をじんわりとあたためていく。
メモ用紙を剥がして、灰を灰皿に落としながら、次はどうしてやろうかと考える直江の顔。
その顔には、本当に久しぶりに、心の底からの微笑が浮かんでいた。
前編 ≪≪
車をホテルへと走らせながら、直江は疲れきった頭で考える。
いまは、その生を失いかけているのではないかと。
景虎を愛しいと思い、同時に憎いと思う。
そのことにもう、疲れていた。
ずいぶんと長い間、身体の全て、全細胞で彼を求め、同時に拒み続けてきた。景虎に翻弄され、同時に反発してきた。そのことの無意味さが、いまは直江をむなしくする。
意味を求めていた訳ではない。彼の前に立つとそうならざるを得なかっただけ。けれどいつの間にかそれは、直江に生の動機を与えていたのだ。
今は呼吸ひとつするのにも疲労が伴う。
結局いつもの使命やら規範やら何の力も持たないような薄っぺらいものばかりに頼ってばかりいるのだけれど、慣れ親しんだこのオートマティックな行動基準は、ほんのわずかだが安心感を与えてくれる。同時に、自己嫌悪という多大な副作用を引き起こすのだけれど。
ホテルの地下にある駐車場はひどく暗かった。
駐車を終えた直江がサイドブレーキを引いて顔をあげると、目の前の窓ガラスには焦燥しきった男の顔が映っている。
ひとりよがりの人格障害者。
どこからか、そんな声が聞こえてきた。
いつだって自分、自分、自分。自分が全て。世界の中心。自分という人間がこの世の事象のほんのわずかな部分を辛うじて担っているだけだという事実を認められない。自分で自分を愛しすぎて、同じように愛してくれない世間をずっと恨んでいる。
そしてたぶん、自分が彼を想うのと同じ様に、自分を想ってくれない彼をずっと恨み続けている。
(見返りが欲しいと言ってるんじゃない)
そんなものは欲しくもない。
きっと自分だけがこんな目にあうのが悔しくて、彼にも同じ思いを味あわせたいのだ。
彼が欲しくて欲しくて堪らない自分の苦しみと同じものを、彼にも味あわせたい。
彼を純粋に愛しいと思う気持ちが自分の中に無いわけではないが(それがなければこうはならなかった)、自分が景虎に執着するのは自己愛の延長という意味合いが強いのだと、直江は認識していた。
ずっと、そう思っていた。
あのとき、気付いてしまったのだ。
鏡の中の楽園を捨てるという選択は、直江にしてみればこの先いつまで続くかもわからない苦しみや痛みを選択するというのと同じだった。自分がどれほど無様であろうと辛かろうと、彼の隣で苦しみ続けることを、自分は放棄すらできないのだと思い知った。
これは自己愛とかそういう問題ではなくて、根本的に自分はもう彼から逃れられないのだと。
いつしか自分は、世界を跪かせるあのひとを屈服させることで世界を手に入れたかったのではなく、世界を手に入れてあのひとこそを屈服させたいと思っていたのではないか。
世界から特別だと思われる手段として、彼を手に入れたいのではなく、彼の特別な存在でいたいがために、世界を手に入れなければならなくなったのではないか。
自己愛に端を発したはずの感情は、いつの間にか全く違うものに変容していたのかもしれない。
許せないのは、彼が自分のその葛藤をいつもと同じように背中で受け止めたことだ。
自分の苦しみとか痛みとかに、彼は全く興味を持っていない。ただそれが自分のためであれば、どんなものでもいいのだ。
背後でこれほど自分がのた打ち回っていても、振り返ろうともしない。負ける気も抱かれてやる気も、あのひとの中には微塵もない。おまえなど取るに足らない人間のうちのひとりだとしか、言わない。
そのことだって、もうずっと前からわかっていたはずなのに。
景虎もまた人格障害者であることを直江は知っていた。
自分自身に満足することがないから、自分自身を愛することの出来ないひと。彼はいつだって自身の存在理由を認められず、苦しんでいた。
自分なんかにその穴埋めを求めても無駄だと彼も知っている。そうだろう。いつだって自分は口先ばかりで、勝ちたいだとか言って、やってることはなんだ。彼に八つ当たって傷つけて泣かせるだけで、勝つ気配すら無い。
彼に手を伸ばしたりして、どうするつもりだったのか。
おびえたような瞳が蘇る。
こんな人間の手を、誰が取るというのだろう。
かつて、彼が自分の手を必死に求めていたとき、馬鹿な自分が何をしたのかもう忘れてしまったというのだろうか。
自分は彼に手を差し伸べることはしなかった。
だから、彼の手は聖母へと伸びたのだ。
虚無感が、直江を襲う。
結局また、自分は景虎に対して何者にもなることはできないのだ。
今までと同じように、敗け続けるだけ。背中を見つめ続けるだけ。
二度と同じ過ちは繰り返さないと誓ったはずなのに、自分は何も変わっていない。まともな関係が築けない。
せめて彼と笑顔で接することの出来た日々に戻れないかと考えてみて、でもそれもあまりに白々しく、想像するだけで笑いが漏れてくる。
自分の醜さを再確認するだけの毎日。もうそんなこと、うんざりだ。
───おまえを縛ろうなんて、考えていない。
縛る必要も無い。こんなになっても、自分はどうせ彼から眼をそらせない。
彼の行動の全てにいちいち反応する自分に、いい加減もう飽きてもいい頃だ。
彼の姿を見て勝ちたいと叫べば正解。
そんな出来レースのような四百年。どうしようもなく無意味で、つまらない四百年。
彼の言う通り、自分はずっと駄々をこね続けているのだ。
自分の思い通りにならないことを、今も昔も、納得できないと喚いている。まるで子供がするように、手足をばたつかせ、涙を流しながら。
そんなことをしたって、何も思い通りになることなどないのに。
おもちゃ売り場の駄々っ子たちは、いったいその何割が望みを叶えるのだろう。
自分を悩ませているその問題に、決定権を持つことの無い彼ら。権限はいつも、自分以外の誰かのもの。
いつかそのことに気付いて、誰もが諦めを知るのだ。
自分の心が冷えていくのがよくわかる。
疲れのせいなのか、なんなのか。
肉を切り裂かれるようなその痛みだけが直江を責めたてる。
簡単に熾せるはずの火が、熾せなくなっていた。
だから、身体も心もどんどん冷えていく。
冷えて冷えて、そのうちに感覚もなくなりそうだ。
けれど心が凍りつくほど、傷跡のような痛みが熱く、際立っていくように思えた。
部屋に到着した直江は、キーを差し込んだ。
中に入って照明をつけ、とりあえずタバコを一本取り出した。
ライターで火を点けながら、二歩目を踏み出すのを躊躇った。
どこもかしこも、彼の匂いが染み付いているような気がした。
それは、簡単な掃除をしたところで消えてしまうようなものではないのだ。
灰皿はどこにやっただろうかと部屋をみまわして、ベッド脇のサイドボードで視線をとめた。
「?」
違和感を覚えた直江は近寄ってみて、目を瞠る。
少し右上がりの字で書かれたメモ用紙が、そこにあった。
『禁止』
灰皿に、これみよがしに貼り付けられている。
(高耶さん……)
きっと、自分の馬鹿げた未練たらしい行為に、必死に応えようとしてくれたのだろう。
その姿が眼に浮かんで、直江は沸きあがる衝動を抑えきれなくなった。
「高耶さん……っ」
今すぐあの場に戻って、彼を抱きすくめてしまいたかった。
こんなどうしようもない男に、彼はまだ見当違いの期待をしている。
そんな彼の希望を感じさせる行為があまりに無知すぎて、とても憎く、哀れで切なくて、狂おしいほどに愛しかった。
いま、また自分は縛られた。
大した労力も要らない、莫大な金がいるわけでもない、ましてや命をかける必要も無い、こんな些細な行為でも、彼が少しでも自分を思ってしたということが、直江を深く繋ぎとめる。
認めたくは無いけれど、この精神が癒されていく感じはどんなに否定し拒絶してみてもきっと消えない。
じっと耐えるようにしていた直江は、やがてその身体の強張りを解いた。
見つめる高耶の文字が、冷え切っていた心をじんわりとあたためていく。
メモ用紙を剥がして、灰を灰皿に落としながら、次はどうしてやろうかと考える直江の顔。
その顔には、本当に久しぶりに、心の底からの微笑が浮かんでいた。
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