『"普通の生活"とやらに、そろそろ見切りつける覚悟決めるんだな』
千秋の部屋を出て、高耶は考える。
そんなのは分かってる。
強がりなどではなく、本当にその通りだと思うのだ。
譲には申し訳ないとは思うが、ここまで《闇戦国》が活発化してくると、生活がどうとか悠長なことは言っていられない。ただ、今すぐに学校を辞めればいいという問題でもない。《魔王の種》の監視という意味では、譲の卒業までは籍を置いておいたほうが都合がいい。千秋にも引き続き、"小姑の小言"ごと監視を続けてもらうことになるだろう。
それにいつか、譲にだってわかってもらえる時が来るはずだ。もし自分が全国の怨将を《調伏》して回らなければ、現代人へと被害が拡がるだけなのだから。
更に言えば、そういう事情を全てわかっている譲は、恵まれているとすら言えた。
(美弥………)
家を出るときの妹の表情が脳裏に蘇る。
めずらしく家にいた父親も、こんな時間から出かけることに不審感を抱いているようだった。高耶に対しては後ろめたさがあるから、何も言っては来なかったけれど。
そろそろ、手を打たなくてはいけない。
"家族への暗示"。
そんなこと、少し前の自分は考えもしなかったことだ。言われたって絶対にさせなかっただろう。
それを今、自ら進んで施そうとしている。
(これでいいんだ)
無理に変わろうとしなくても、どんどん変化している自分に、高耶は気付いていた。
時々、自分でもついていけないほど急激に。
(これでいいんだろう?)
高耶は無意識のうちに描いた男の輪郭に問いかけながら鍵を使って、昨晩その男が使用した部屋の扉を開けた。
明かりをつけると、さほど広くない部屋に木製の椅子とシングルベッドがひとつ。
床に塵ひとつ落ちていないのは直江が特別綺麗に使ったからという訳ではなく、清掃が入ったからのようだった。
ベッドサイドの灰皿には、吸ったであろう煙草の吸殻もない。けれど、その煙がまだ、室内に残っている気がして、高耶は深く息を吸い込んだ。
上着を脱いで無造作に椅子の上に放り投げると、そのままうつぶせでベッドに倒れこむ。
新幹線の中で少し寝たせいか、この時間でも眠くはならなかった。
真新しいシーツに顔をこすり付ける。そこにもやはり、直江の気配はない。
けれど昨晩、確かに直江はここにいたのだ。
「……………」
しばらくその体勢のまま動かずにいた高耶は、やがてむくりと起き上がった。
そして大きくため息をつくと、シャワーを浴びるために洗面所へと入っていった。
シャワーを浴び終えてバスルームから出てきた高耶は、椅子に掛かった上着のポケットから飲みかけのペットボトルを取り出すと、それを一気に飲み干した。それでもまだ足りなくて、備え付けの冷蔵庫を開けてみる。
そこで─────。
息を止めた。
重さを感知して料金を計算する古いタイプの冷蔵庫だったのだが、高耶が好んでよく飲む銘柄のビールにだけ、『禁止』と書かれたメモ用紙が貼られていたのだ。
「っ……………」
よく知った筆跡に、心臓が掴まれたように痛くなった。
以前にはよくこうやって未成年扱いされたものだが、関係が悪化してからはそういうこともなくなっていた。
口うるさい直江にぎゃあぎゃあと文句を言ったことが思い出される。
しばらく立ち尽くしていた高耶は、やがて冷蔵庫の前に屈みこむとその字に指で触れてみた。
冷たいその感触は、まるで今の自分達の関係を表しているかのようだ。
こんな風に、直江にしかできない行為をみせつけられると、どれだけ自分がそういう行為に飢えているかを再認識する。
何で今更こんなことをするのか。
あの男の行為の理由を考えるのは、もう無駄だとわかっているはずなのに、考えずにはいられない。
(なにを考えてる……?)
こんなことをする直江の意図を必死に汲み取ろうと、高耶はじっと、その文字を見つめ続けた。
翌朝、出掛けに千秋の部屋へ寄ってみたら、もうすでに出発した後だった。
何も言わずにひとりで出ていってしまったことを多少不審に思いながら、ひとり監視現場に赴いたのに、そこにも姿は無く、疲れた様子の直江と所在なさげな八海が立っていた。
「景虎様」
高耶の姿を見つけた八海はすぐに近寄ってくるが、直江はといえば一瞥をくれただけで挨拶もしてこない。
けれど高耶も、自分から話しかけたりはしない。
いきなり無言になってしまったふたりをみて、
「現状ですが……」
と八海が報告を始めるが、
「いい」
高耶がとめた。
「直江にやらせろ」
精一杯感情を抑えた口調で、高耶は言った。
直接直江に命令しない高耶に戸惑いながら、困った風に八海が直江を見る。
仕方なくといった感じで、直江は口を開いた。
淡々とあったことだけを簡潔に言うその言葉遣いに、あのメモを残した直江の姿は想像もつかない。
今、ポケットに入っているこの紙がなければ、夢だったのではないかと思える程だ。
直江は状況を話し終えて、締めの言葉すら言わない。
「い、以上です」
結局、そう言ったのは八海だった。
「……ご苦労だった」
「はっ」
「岩村城の軒猿から報告があった。蛇骨入道はやはり岩村御前との複合体となっているようだ」
一揆の幹部を説得して蛇骨入道を岩村城へと移動させる方針を告げると、
「さっさと乗り込んだほうがいい」
直江がすぐに反発した。
「あなたもあの大銀杏を見たでしょう。説得などと悠長なことを言っているうちに、一般人に被害がでるかもしれない」
それは昨日も散々電話で言われたことだ。いい加減うんざりといった顔をつくって高耶は直江を見る。
どうせ直江は自分に素直に従いたくないだけなのだとわかっている。きっと高耶が今すぐ乗り込もうと言えば、今度は逆の意見を言ってくるに違いない。
「暴走はないとオレが判断したんだ。いつまでも駄々こねるような真似はするな」
「駄々?」
眼をむいた直江が、高耶を見た。
その冷たい瞳にやっと感情らしきものが宿る。
その感情の種類を嗅ぎ取りながら、高耶も直江を見つめ返す。自然と腹に力が入った。
「いったいどんな根拠で暴走がないというんです?お得意の"勘"ですか」
「"勘"なんかじゃない。集まった情報と現状を見て、判断したんだ」
「やっと暗示が使えるようになったばかりの人間の、安易な状況判断を信じろというのですか」
「………それでも、お前のよりはマシだろう?」
眼を細めた高耶の様子に、直江は驚いたように口をつぐんだ。その表情は、恐怖に近い。
「……さ、寒いので何か温かいものでも買ってきます」
その緊迫した雰囲気にいたたまれなくなった八海は、とうとう逃げ出してしまった。
ふたりきりになると、直江はすぐに視線を逸らしてしまう。その横顔は苦しそうだ。
沈黙が、重い。押しつぶされそうになる。
こうなるのが嫌だったから、千秋と一緒に来ようと思ったのに。
───かみさんのご機嫌伺いに子供使うような真似………。
そんなつもりはなかったけれど、今はふたりきりになりたくない。
高耶はポケットに入っているメモ用紙を握り締めた。
いや、なりたくない訳じゃない。
ふたりきりになると、何かを期待してしまう自分が嫌なのだ。
直江は何を考えているのか、自分の左手をじっとみつめていた。
怪我でもしたのかと気になってその様子を見ていたら、不意にその手をこちらへ伸ばしてきた。
高耶がびくっと身体を揺らして身構えると、傷ついたような瞳でその手を引っ込める。
「───直江……?」
結局八海が戻るまで、直江は黙り込んだままだった。
だから、高耶もそれ以上は追求しなかった。
近頃、やっとわかってきたことがある。
たぶん、それが自分達のルールなのだ。お互い、決して真正面を向き合うことはしない。訊きたいことがあっても素直に口にしたりはしない。
相手に背を向けて、けれど背中の気配だけで必死にその様子を探るのだ。
やがて千秋が到着し、直江はいったんホテルへ引き上げることになる。
去り際、高耶は直江の無表情の中にどこか思いつめたものを感じ取っていた。
(鏡があればいいのに)
不意に高耶はそう思った。
もし自分の目の前に大きな鏡があれば、隣にいようが、背後にいようが、振り返ることなく様子を伺える。
高耶は、ポケットの中のメモ用紙が、鏡に映った直江からのアイコンタクトのように思えた。
≫≫ 後編
千秋の部屋を出て、高耶は考える。
そんなのは分かってる。
強がりなどではなく、本当にその通りだと思うのだ。
譲には申し訳ないとは思うが、ここまで《闇戦国》が活発化してくると、生活がどうとか悠長なことは言っていられない。ただ、今すぐに学校を辞めればいいという問題でもない。《魔王の種》の監視という意味では、譲の卒業までは籍を置いておいたほうが都合がいい。千秋にも引き続き、"小姑の小言"ごと監視を続けてもらうことになるだろう。
それにいつか、譲にだってわかってもらえる時が来るはずだ。もし自分が全国の怨将を《調伏》して回らなければ、現代人へと被害が拡がるだけなのだから。
更に言えば、そういう事情を全てわかっている譲は、恵まれているとすら言えた。
(美弥………)
家を出るときの妹の表情が脳裏に蘇る。
めずらしく家にいた父親も、こんな時間から出かけることに不審感を抱いているようだった。高耶に対しては後ろめたさがあるから、何も言っては来なかったけれど。
そろそろ、手を打たなくてはいけない。
"家族への暗示"。
そんなこと、少し前の自分は考えもしなかったことだ。言われたって絶対にさせなかっただろう。
それを今、自ら進んで施そうとしている。
(これでいいんだ)
無理に変わろうとしなくても、どんどん変化している自分に、高耶は気付いていた。
時々、自分でもついていけないほど急激に。
(これでいいんだろう?)
高耶は無意識のうちに描いた男の輪郭に問いかけながら鍵を使って、昨晩その男が使用した部屋の扉を開けた。
明かりをつけると、さほど広くない部屋に木製の椅子とシングルベッドがひとつ。
床に塵ひとつ落ちていないのは直江が特別綺麗に使ったからという訳ではなく、清掃が入ったからのようだった。
ベッドサイドの灰皿には、吸ったであろう煙草の吸殻もない。けれど、その煙がまだ、室内に残っている気がして、高耶は深く息を吸い込んだ。
上着を脱いで無造作に椅子の上に放り投げると、そのままうつぶせでベッドに倒れこむ。
新幹線の中で少し寝たせいか、この時間でも眠くはならなかった。
真新しいシーツに顔をこすり付ける。そこにもやはり、直江の気配はない。
けれど昨晩、確かに直江はここにいたのだ。
「……………」
しばらくその体勢のまま動かずにいた高耶は、やがてむくりと起き上がった。
そして大きくため息をつくと、シャワーを浴びるために洗面所へと入っていった。
シャワーを浴び終えてバスルームから出てきた高耶は、椅子に掛かった上着のポケットから飲みかけのペットボトルを取り出すと、それを一気に飲み干した。それでもまだ足りなくて、備え付けの冷蔵庫を開けてみる。
そこで─────。
息を止めた。
重さを感知して料金を計算する古いタイプの冷蔵庫だったのだが、高耶が好んでよく飲む銘柄のビールにだけ、『禁止』と書かれたメモ用紙が貼られていたのだ。
「っ……………」
よく知った筆跡に、心臓が掴まれたように痛くなった。
以前にはよくこうやって未成年扱いされたものだが、関係が悪化してからはそういうこともなくなっていた。
口うるさい直江にぎゃあぎゃあと文句を言ったことが思い出される。
しばらく立ち尽くしていた高耶は、やがて冷蔵庫の前に屈みこむとその字に指で触れてみた。
冷たいその感触は、まるで今の自分達の関係を表しているかのようだ。
こんな風に、直江にしかできない行為をみせつけられると、どれだけ自分がそういう行為に飢えているかを再認識する。
何で今更こんなことをするのか。
あの男の行為の理由を考えるのは、もう無駄だとわかっているはずなのに、考えずにはいられない。
(なにを考えてる……?)
こんなことをする直江の意図を必死に汲み取ろうと、高耶はじっと、その文字を見つめ続けた。
翌朝、出掛けに千秋の部屋へ寄ってみたら、もうすでに出発した後だった。
何も言わずにひとりで出ていってしまったことを多少不審に思いながら、ひとり監視現場に赴いたのに、そこにも姿は無く、疲れた様子の直江と所在なさげな八海が立っていた。
「景虎様」
高耶の姿を見つけた八海はすぐに近寄ってくるが、直江はといえば一瞥をくれただけで挨拶もしてこない。
けれど高耶も、自分から話しかけたりはしない。
いきなり無言になってしまったふたりをみて、
「現状ですが……」
と八海が報告を始めるが、
「いい」
高耶がとめた。
「直江にやらせろ」
精一杯感情を抑えた口調で、高耶は言った。
直接直江に命令しない高耶に戸惑いながら、困った風に八海が直江を見る。
仕方なくといった感じで、直江は口を開いた。
淡々とあったことだけを簡潔に言うその言葉遣いに、あのメモを残した直江の姿は想像もつかない。
今、ポケットに入っているこの紙がなければ、夢だったのではないかと思える程だ。
直江は状況を話し終えて、締めの言葉すら言わない。
「い、以上です」
結局、そう言ったのは八海だった。
「……ご苦労だった」
「はっ」
「岩村城の軒猿から報告があった。蛇骨入道はやはり岩村御前との複合体となっているようだ」
一揆の幹部を説得して蛇骨入道を岩村城へと移動させる方針を告げると、
「さっさと乗り込んだほうがいい」
直江がすぐに反発した。
「あなたもあの大銀杏を見たでしょう。説得などと悠長なことを言っているうちに、一般人に被害がでるかもしれない」
それは昨日も散々電話で言われたことだ。いい加減うんざりといった顔をつくって高耶は直江を見る。
どうせ直江は自分に素直に従いたくないだけなのだとわかっている。きっと高耶が今すぐ乗り込もうと言えば、今度は逆の意見を言ってくるに違いない。
「暴走はないとオレが判断したんだ。いつまでも駄々こねるような真似はするな」
「駄々?」
眼をむいた直江が、高耶を見た。
その冷たい瞳にやっと感情らしきものが宿る。
その感情の種類を嗅ぎ取りながら、高耶も直江を見つめ返す。自然と腹に力が入った。
「いったいどんな根拠で暴走がないというんです?お得意の"勘"ですか」
「"勘"なんかじゃない。集まった情報と現状を見て、判断したんだ」
「やっと暗示が使えるようになったばかりの人間の、安易な状況判断を信じろというのですか」
「………それでも、お前のよりはマシだろう?」
眼を細めた高耶の様子に、直江は驚いたように口をつぐんだ。その表情は、恐怖に近い。
「……さ、寒いので何か温かいものでも買ってきます」
その緊迫した雰囲気にいたたまれなくなった八海は、とうとう逃げ出してしまった。
ふたりきりになると、直江はすぐに視線を逸らしてしまう。その横顔は苦しそうだ。
沈黙が、重い。押しつぶされそうになる。
こうなるのが嫌だったから、千秋と一緒に来ようと思ったのに。
───かみさんのご機嫌伺いに子供使うような真似………。
そんなつもりはなかったけれど、今はふたりきりになりたくない。
高耶はポケットに入っているメモ用紙を握り締めた。
いや、なりたくない訳じゃない。
ふたりきりになると、何かを期待してしまう自分が嫌なのだ。
直江は何を考えているのか、自分の左手をじっとみつめていた。
怪我でもしたのかと気になってその様子を見ていたら、不意にその手をこちらへ伸ばしてきた。
高耶がびくっと身体を揺らして身構えると、傷ついたような瞳でその手を引っ込める。
「───直江……?」
結局八海が戻るまで、直江は黙り込んだままだった。
だから、高耶もそれ以上は追求しなかった。
近頃、やっとわかってきたことがある。
たぶん、それが自分達のルールなのだ。お互い、決して真正面を向き合うことはしない。訊きたいことがあっても素直に口にしたりはしない。
相手に背を向けて、けれど背中の気配だけで必死にその様子を探るのだ。
やがて千秋が到着し、直江はいったんホテルへ引き上げることになる。
去り際、高耶は直江の無表情の中にどこか思いつめたものを感じ取っていた。
(鏡があればいいのに)
不意に高耶はそう思った。
もし自分の目の前に大きな鏡があれば、隣にいようが、背後にいようが、振り返ることなく様子を伺える。
高耶は、ポケットの中のメモ用紙が、鏡に映った直江からのアイコンタクトのように思えた。
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