深く掘った濠は干上がり、鉄の壁も触れれば崩れ堕ちる。
厳重な護りで固められた心の奥の奥、一番弱い部分に触れられるのは、いつだっておまえだけだった。
けれどいま、その護りは脆くも崩れ去り、大切なはずのものが無防備に、外気に晒されている。
直江。
何故おまえはそれを許せるんだ?
この間、初めてあった赤の他人が、オレのその部分に触れてきた。
こんな状況を、何でおまえは許してるんだ?
□ □ □
ホテルの部屋の鍵を開け、小太郎は先に高耶を中へ入れた。
入るなり、高耶は服を脱ぎ始める。
小太郎はカードキーをテーブルの上に置いてから、尋ねた。
「夕食はどうされますか」
「いらない」
「少しは何か食べないと身体に───」
「いい」
"身体の心配をすること"は綾子から教わった直江信綱らしい行動のひとつだったのだが、今日の高耶の気には召さなかったらしい。
「早く、シャワーが浴びたい」
高耶はすでに上半身を脱ぎ終わって、ズボンのベルトの手をかけている。
小太郎がいると脱ぎにくいから、早く出て行けということだろう。
「明日の出発は何時になさいますか」
「…8時」
高耶の答えを聞いて、小太郎は一瞬動きを止めた。
(今の間)
出発時刻を言う前の、わずかな間。
この間が最近、小太郎を酷く悩ませている。
「直江?」
「………わかりました。では明日、8時に」
「ああ」
高耶の部屋を後にして、小太郎は知らず知らずのうちにため息をついていた。
先程の間。
たぶんかなり長い時間を高耶と過ごさない限り、気付かないだろう。
実際、最初の頃の自分は違和感すら感じなかった。
けれど今は解る。
(あれは、"直江"に何かを求めている合図だ)
けれど小太郎にはそれが何なのか、さっぱりわからない。
小太郎はもう一度大きく息を付くと、自分の部屋へと向かった。
何か規則があるのではないかと、探ってみたりもした。
前後の何気ない行動から、その日全ての行動を洗い直した。
小太郎自身の行動や、その時扱っている事件の種類、場所、時間、果てはその日の天候までデータ化してみたが、なんの法則も見つからなかった。
ある時は先程のように、事件後の宿の部屋で。
ある時は車を運転中の何気ない会話の中で。
ある時は事件の経過報告の電話越しに。
合図があるということは、それに呼応する何かしらの行動があるということだ。
いったいそれは、何なのだろうか。
「んなの、直江にしかわかんねーよ」
ツインルームの片方のベッドの上から、千秋は投げやりに言った。
「それでは困る」
「困るったってねえ……」
こっちも困るっつーの、とうつ伏せになってぼやいている。
「俺だってあいつらの言動やら行動やら、全部を見てた訳じゃねえからなあ」
「けれど私よりは確実に知っているはずだ」
「そりゃあ、そうだけどな……」
しばらく考えていた千秋は、こんな話、したくもねえ、と言いつつ口を開いた。
「つまりな、景虎が求めてんのは、愛情表現……つーか、コミュニケーションなんだよ、たぶん」
「コミュニケーション?」
「ただ必要なことを喋ってるだけじゃあコミュニケーション不足ってこと。あいつらにはあいつらのやり方があるからな」
「その、やり方とやらが知りたい」
「だから、そんなのは直江にしかわかんねーだろ」
「どうしてだ?何故わからない?」
「ほら、SMプレイじゃあ鞭で叩くのがコミュニケーションの手段だろ。幼児プレイだったらオムツ替えんのがそうだ。でも、大抵の人間はそんなことしないだろ。つまり、同じ嗜好を持った者同士じゃねーとわからないことがあるんだよ」
なるほど、と小太郎は手を顎へとやった。
「鞭で……叩く……」
「こら。それは例えだからやるんじゃねーぞ?」
すっかり寝る体制の千秋は、眼鏡を外してサイドボードへ置いた。
「そんなに極端じゃなけりゃあ、そこらへんの夫婦にだってあるんだろーぜ。ふたりだけにしかわからない感情表現みたいなのが」
「例えば」
「例えば?あー、夕飯がハンバーグだったらいいことがあった証拠だから聞いてみるとか、朝テーブルに新聞がなければ機嫌が悪い証拠だから気を使ってみる、とかさ」
千秋は説明をしながら、自分で頷いている。
「あいつらにもそういうのがあって、その"間"とやらはそーゆーのの一環なんだろ。でも、そんなルールは書面にしてある訳でもなければ、約束事ってわけでもない。ふたりの感覚的なものだろ」
だから直江にしかわかんねーって言ってんの、と言って、千秋はソファに備え付けのクッションを股の間に挟みこんだ。そうやって眠るのが癖らしい。
小太郎は、まだ深く考え込んでいる。
(つまり、逆に考えれば……)
「それさえわかれば、私は直江として更に強く認識されるという訳だな」
「……まあ、そーなるかな?」
ポリポリと頭をかいた千秋は、もう寝るぞ、と言って布団を被った。
(そうなるだろう)
あの"間"は、小太郎が直江らしくあるための、新たなる突破口でもあるということだ。
これは、ますます研究しなくてはならない。
(まずは、観察だ)
"間"以外にもそういうルールがあるのに、自分は見落としているかもしれない。
("景虎様"をもっとよく知ろう)
千秋がさっさと照明を落としてしまったせいで部屋は真っ暗になったというのに、小太郎はその後もしばらく、動くことなく考え込んでいた。
≫≫ 後編
それでも先程から、往来が途切れることはない。
目の前には、小さなバスのロータリー。
それを挟んで向こうに見える、昔ながらの商店街。
そんな駅の、改札口の脇。
白いコートの青年と黒服の男が向き合って、互いの片手を握っていた。
吹きぬける風が、新しい季節の到来を告げている。
青年の視線は少し不安気で、子供が親を頼って見上げているようにも、親が心配そうに子供を見つめているようにも見えた。
男はそれを、優しげな瞳で見守っている。
青年の、きゅっと結ばれていた唇が開かれて、若い、けれどどこか落ち着いた雰囲気の声が、発せられた。
「忘れ物は」
「ありません」
そう答える男の声もまた、静かに聞き入ってしまうような不思議な魅力を持っている。
「遣り残したことがあんなら今のうちだぜ」
「ありませんよ」
男は微笑を浮かべていた。
青年は、何か言わなくてはと思う。笑顔で送り出すと決めたのだから。
なのに言葉が浮かんでこなかった。とても笑顔なんてつくれそうにない。
おまえなら大丈夫だと言えばいい。不安に思うことなどないのだからと。
でも、目の前の男は不安げな顔などしていない。
むしろ、かつてないほどの穏やかな顔だ。
そんなものなのかと思う。
まるで、はじめてのおつかいに子供を送り出す、親の心境だ。
不安でしょうがないのは実は、自分のほうなのだということに気付いて、青年もまた、笑みを浮かべた。
他人と関わりを持つ度、
真剣に現実と向き合う度に生まれる、
あの宝石のような輝かしい、愛しいもの。
それを何と呼ぼう。
歴史と呼ぶか。
真実と呼ぶか。
それを、ひたすらに求める道のりだった。
まだまだ足りない!
もっとたくさんの歴史を!
もっとたくさんの真実を!
そして、いつしか翻せない事実に気付く。
この道のりには、最終地点(ゴール)がない。
だから。
オレはもうよかったんだ。
どの瞬間も、歴史を積み重ねられたのなら。
真実を求め続けられたのなら。
オレたちの道のりは、決して消えない。
オレたちが生きた証は、永久にのこってゆく。
だからもう、いつ終わりにしてもよかったんだ。
「そろそろ行かないと」
「ああ」
わかってはいるが、手を離したくはない。
男も、自分から手を離すつもりはないようだ。
「……………」
無言で佇むふたりの元へ、どこかから、聴いたことのある曲が流れてきた。
「この歌………」
昔、好きでよく聞いていた。
たまに思い出したように口ずさんでいた歌だ。
「……オレはもう、おまえに話すことは出来なくなる」
音の流れてくるほうを見つめながら、青年はそう言った。
「おまえを導くことはできなくなる」
出来る限り、そばにいるつもりではいるけれど。
永い永い道程全てに、付き合ってやることは出来そうにない。
男が、気が狂いそうになるほどの恐怖に駆られたとしても。
声を枯らして号泣してもなお、収まりきらないほどの悲しみに駆られたとしても。
命を絶つことすら億劫なほどの、無気力に駆られたとしても。
もう大声をあげて、叱咤することはできなくなる。
「けれどこの歌を聴いたとき、おまえはきっとオレの声を想いだす」
「ええ」
青年が再び向き直ると、男は穏やかな表情のまま頷いた。
「歌だけじゃないんですよ」
男の低い声が、特有の語調で言葉を紡ぐ。
「あなたと私を繋ぐものは、他にもたくさんある」
二人で目にしたもの、聴いたこと、触れたもの。
様々なものが、ことが、ふたりを繋げてくれる。
「だから心配しないで」
いつもの微笑が、男の顔に浮かんでいる。
「私なら大丈夫だから」
「───ああ」
励ますつもりが、逆に窘められてしまったようだ。
「あなたとの日々を想えば、いつでも進むべき道は見える」
「わかってる……」
呟いた青年の着る白い服の裾を、一陣の風が巻き上げる。
おまえは常に、終わりを否定し続けた。
ここがゴールだと書いてあってもその立て札を蹴散らす勢いで、
おまえは歩み続けた。
"自分の想いは永劫、変わることはない"
ただそのことを証明したいのだという。
その夢物語を聞くたびにオレは、
おまえにそこまで口にさせる自分自身の価値というものを、
保障される気がしていたものだった。
そしてその熱に中てられたように、
もう少しだけ、生きてみようかという気になった。
そんな風に生きながらえてきたことへの罰なのだろうか。
初めて、心の底からリミットの先延ばしを願ったというのに。
その願いが、叶うことはなかった───……。
大きな音が鳴り響いて、青年ははっと顔をあげた
発車のベルが、時間切れだと告げている。
男は一度だけ、青年の手を強く握ると、ゆっくりと優しく解いて、改札口へと歩き始めた。
遠ざかっていく後ろ姿を、青年は為す術なくじっと見つめる。
追いかけちゃいけない。
自分はあの改札を通ることはできない。
………けれど。
「────ッ!」
気がついたら、声を上げて駆け出していた。
おまえはこれから、未知の旅路へと足を踏み入れる。
誰もが笑うであろう夢物語を、現実のものとするために。
それは受け入れがたい現実に、
真摯に向き合う強さを持ったおまえだから、
導き出せた結論だろう。
オレの生きてきた道、オレのしてきたこと、
それらがおまえの強さにつながったというのなら、
これほど嬉しいことはない。
オレたちの四百年の先にまだ続きがあるということが、
どれほどオレに救いを与えていることか。
だからオレは、残りの自分の全てをかけて、
おまえの往く道を護りたいと思う。
オレの持てる全ての力を、捧げたいと思う。
そして誓う。
オレの身体も思念も魂すらも、消えてしまったとして。
それでも。
オレの、オレたちの遺してきたもの。
そして、これから遺していくもの。
この胸にある、決して消えない想い。
その全てで、この先もずっと、おまえとともに歩むことを。
「直江!!!」
名を呼びながら、全速力で走り寄る。
驚いて振り返った男に、しがみつくように抱きついた。
「直江……っ」
抱きとめた男の腕も、力いっぱいに抱き返してくる。
溢れ出す感情で、胸がはち切れそうだった。
「なおえ……」
感情が涙となって、頬を幾筋も伝っていく。
この想いで、この強さで、おまえを護るから。
ずっと護るから。
おまえから貰ったたくさんのものが、オレをここまで導いてくれたように。
これからのおまえの往く道を、オレたちの日々がきっと護っていく。
不安なとき、つらいとき、苦しいとき、オレを想い出して欲しい。
おまえがオレを想うとき、かならずオレも、おまえを想っているから。
「ずっと一緒だ」
涙声に、ええ、と男もこたえた。
「ずっと、繋がっている」
いつも、どんな時も、何処にいたとしても。
ふとした瞬間に想いだす。
共に聴いた歌、共に見た風景。
共に感じた風の感触、共に浴びた波の飛沫。
共に登った険しい山道、共に駆けた果てない草原。
共に濡れた突然の雨、共に迎えた朝の光。
交わされた無数の言葉、数え切れぬ涙。
力強い視線、しなやかな四肢、髪の滑らかさ。
繋いだ手のぬくもり、触れ合った肌の熱さ。
自分の名を叫ぶ、愛おしい声。
それらあらゆるもの、全てで。
自分達はずっと、つながっていける。
高耶の口から、まさかの世間話が紡がれて、直江は思わず目を丸くした。
「……そうですね」
戸惑いを隠しきれずに返事をする。
「まあ、私達には関係ないですが……」
それを聞いた高耶の瞳が何か言いたげだったから、次の言葉を待っていると、
「隊長、ここなんですが……」
くそ生意気な室戸の首領に邪魔された。
すぐにふたりして書類に集中してしまうから、直江はくるりと踵を返す。
ところが、
「橘!」
珍しく高耶が追ってきた。
「はい?」
振り返った直江を前にして、余程言いにくいことなのか、またしても言い淀む。
「………いつ戻るんだ」
「宿毛にですか?日付が変わる前までには戻るつもりですが」
「渡したいものがあるから、帰る前に部屋に寄ってくれ」
「───わかりました」
直江の脳内は瞬時に三つほどの案件をピックアップされた。
たぶん、それに関する書類か霊器具の類だろう。
そのままその場を離れようとすると、ガシッと腕を捕まれた。
「わかってないだろう」
「何がです」
「……いいけど」
忘れるな、と念を押して、高耶は去っていく。
その後ろ姿を、直江は訳がわからないまま見つめるしかなかった。
夜。
直江は言われた通り、アジトを発つ前に高耶の部屋をノックした。
「入れ」
中に入ると、部屋の照明は消されていて、窓に向かって立つ高耶を、月の明かりが照らしている。
「遅くなりました」
声をかけても、高耶は振り返らない。
淡い光の下で、見慣れたはずの白いシャツが、オーダーメイドの高級品のように光を放っている。
それを纏う高耶もまた、高貴な生まれの聖人のようだ。
容易には声をかけられない雰囲気の中、直江がその後ろ姿を見つめていると、やがて高耶は口を開いた。
「おまえが一番欲しいものを用意した」
まるで任務を与えるときのような声で、高耶は言った。
「当ててみろ」
「景虎様……?」
戸惑いながら数歩、歩み寄る。
「渡したいものというのは、そのことですか」
「そうだ」
何故、と問う前に、高耶からその答えが告げられた。
「誕生日だろう」
そう言われて、直江は初めて気がついた。
五月三日。
ここ数年、普通の日と同じように過ごしていた為に、すっかり忘れていたが。
「───……」
とたんに、昼間の高耶のもの言いたげな表情を思い出して、笑みがこぼれた。
自分じゃあるまいし、誕生日を気にするだなんて。
高耶らしくないとは思ったが、嬉しくはあった。
ゆっくりと近づくと、背後からそっと抱き寄せる。
「一番欲しいもの?」
「そうだ」
不遜げな表情で、高耶は答えた。
これも、照れ隠しの一環なのだろうか。
「あなたにしか、与えられないもの?」
「ヒントはやらない」
「……意地悪ですね」
何せ直江には、欲しいものがたくさんある。
例えば。
瑞々しく張りつめて、汗ばむ肌。
時に雄々しく、時に掠れる野性的な声。
郷愁と官能を刺激する匂い。
時が経つのを忘れるほどに、見つめ続けたい容姿。
ありとあらゆる部分を舐めとって、記憶してしまいたい味。
「……欲張りだな」
「……あなたほどじゃない」
その全てを持つひとの名を、直江はひっそりと口にした。
前編 ≪≪
部屋に入るなり、大きくため息を吐いた高耶に、直江はそう声を掛けた。
「夕食は部屋でとりますか」
「……適当に済ませる」
眼を合わせることなく、高耶は続けた。
「おまえは好きにしていい」
ほぼ命令する口調で言い切る。
「明日の出発までには戻れ」
直江が、何故急にそんなことを、と問い質そうとすると、
「今日が何の日かくらいはわかってる」
高耶はそう言った。
「……景虎様」
今日は五月三日。
部屋をわざわざ別にしたのは、その為だったのだ。
「……………」
突然のことに戸惑っているらしい直江は、皮肉のひとつでも言うかと思えば、
「わかりました」
あっさり引き下がってそのまま、自分の部屋にも寄らずにホテルを後にした。
「誕生日?」
数日前、高耶は綾子からその事実を教えられた。
「そうよー。だから、お祝いしてあげて」
綾子は、アイスコーヒーをかき混ぜながらそう言った。
「なら、部屋を別に取る」
「え?」
「あいつも、誕生日くらいを伸ばしたいだろう」
高耶がそう言うと、
「いやいや、そうじゃなくて」
綾子は慌ててストローを振る。
ところが、
「ま、そのほうが旦那も喜ぶかもな」
隣にいた千秋もしたり顔で賛同した。
「ちょっと!」
話を思った方向へ導けなかったらしい綾子は、なんとか否定の言葉を続けようと試みるが、
「……まあ、そうかもね」
すぐにあきらめてしまった。
(仕方ないさ)
今の高耶と直江の険悪さを知っていれば、無理もない。
明りを消した部屋のベッドで、仰向けに寝転がっていた高耶は、回想シーンを頭から追いやった。
もうすぐ、日付は四日に変わる。
それなのに、高耶は眠れないでいた。
隣の部屋にはまだ、直江の戻ってきた気配はない。
しょうがないから自分も起きて、どこかへ出かけようかと悩み始めたところへ、
「───?」
部屋のチャイムが鳴った。
警戒しながら扉を開けると、
「……………」
少しだけ着崩したスーツ姿で、直江が立っていた。
「いま、いいですか」
無言で部屋へと招き入れると、わずかにアルコールの匂いが漂う。
「起きていたんですか」
「……ああ」
あまり顔を合わせたくなくて、高耶は窓際に向かって立った。
眼下には、夜の街並。
照明が消えているせいで、まるで窓ガラスなどそこにはないように思える。
幻の外気が、頬を撫でていく感覚にとらわれていると───。
「───ッ……」
直江の腕が、高耶を背後から抱きすくめた。
「……よせよ、酔っ払い」
「酔うほど飲んではいませんよ」
直江はそう言うと、高耶の顎を掴んで自分の方へと向けた。
「眠れなかったんでしょう。隣の物音が気になって」
顔を間近に寄せて言う。
「女でも連れ込むかと思った?」
口の端で笑いながら言う直江に、高耶も動じることはない。
「本当にそれしか頭にないんだな」
「……そうですよ」
「あなたと同じだ」
顎を掴んでいた手が、上着の中へと滑り込んだ。
「一緒にするな……」
「一緒ですよ」
「ッ……」
指が、小さな突起を擦る。
「さあ、いったい何を恵んでくれるつもりですか」
「何もやらない」
眼に力を込めながら、高耶は眼下の景色を睨み付ける。
「誕生日だろうとクリスマスだろうと、お前にやるものなんてない」
「……傲慢にも程がある」
「それでも欲しいんだろう?」
高耶の顔に、うっすらと冷笑が浮かんだ。
「そう」
その表情を見つめながら、直江は苦しげに眉根を寄せる。
「欲しくてたまらない」
耳元で、まるで懺悔のような囁き声。
その悲痛な響きに、高耶の顔から笑みが消えた。
男の手が触れたい肌。
男の耳が聴きたい声。
男の鼻が嗅ぎたい匂い。
男の瞳が映したい姿。
男の舌が感じたい味。
その全てを持つ身体で、高耶は、ひっそりと瞳を閉じた。
≫≫ 後編
だから今でも時々、あのひとはいくつくらいの人だったんだろう、と思い返すことがある。
昔の事すぎてよく覚えていないけど、すごく若かった気もするし、意外に歳がいっていた気もする。
でも、当時の私はそのひとのことをおにいさんと呼んだから、やっぱり若いひとだったんだと思う。
その時、私は6歳だった。
今とは全く違って、髪は短く半袖に短パン、いつも男の子と間違われていた頃だ。
その日は両親に連れられて、栃木とか群馬とか、あっちのほうのお寺までやってきていた。車を持たない両親がわざわざレンタカーを借りて高速道路まで使ったことは覚えている。
お寺に着くと、両親は私に遊んでいるように言って、本堂の横にある事務所のようなところへ入っていった。私はどうしてこんな場所へ来たのかもよくわからないまま、境内で遊び始めたのだ。
そこへ、あのひとは現れた。
小学校に上がって隣のクラスのユウタくんを初めて見た時、世の中にはこんなにかっこいい男の子がいるんだなあ、と見とれてしまったことがあったけど、その時と同じように私は、そのひとの容姿から目が離せなくなってしまった。
かっこいいという形容詞は、俗っぽくてあまり似合わない。
まるで、自分たちとは違う世界からやって来たような雰囲気があった。
例えば、外国の映画の中から抜け出てきたかのような。
「こんにちは」
話しかけられて我に返った私は、そのひとが僧衣姿であることに気がついた。
「おにいさんもおぼうさん?」
「ええ、そうですよ」
「わかいのに?」
私はその頃、お坊さんと言えば老人しかいないと思っていたのだ。
「あなたに比べたら、さほど若くはありません」
その人は微笑って言った。
知らない人に"あなた"なんて呼ばれたのは、そのときが初めてだったかもしれない。
名前で呼ばれる以外ではいつも、ぼうやとか、ぼっちゃんとか、ぼくとか呼ばれていたから。
私をきちんと大人扱いしてくれたそのひとは、突拍子もなく、
「お兄さんと、仲がいいんですね」
と言った。
私はびっくりして、目を丸くした。
「どうしてわかるの?」
「恰好がそっくりなので」
「…………"おにいちゃん"がみえるの?」
「ええ、もちろん。けれど、私はどうも嫌われているようですね」
私が斜め後ろを振り返ると、"おにいちゃん"はそのひとを怖い顔で睨みつけていた。
私には、物心がついた時から、私にしか見えない"おにいちゃん"がいた。
"おにいちゃん"はずっと5歳で、歳を取ることはない。
だから少し前に、私は"おにいちゃん"より年上になってしまったけど、でもやっぱり"おにいちゃん"は"おにいちゃん"だ。
"おにいちゃん"は色々とうるさかった。
私がピンクの服を着ようとすると、青がいいという。
髪を伸ばしてみつあみがしたいと言うと、もっと短く切れという。
ぬいぐるみが欲しくてもミニカーを買ってもらえというし、女の子たちのいる砂場で遊びたくても、男の子たちのいる鉄棒に行けという。
本当はそんなことしたくなかったけど、"おにいちゃん"はしたくてもできないんだと思うと、なんとなく自分がやってあげようと思ってしまうのだ。
「優しいですね」
"おにいちゃん"の話をそんな風にしたら、そのひとはそう言った。
── ほめられたら おれいをいわないと ──
斜め後ろから声がしたから、慌てて
「ありがとう」
と言うと、そのひとは笑いながら、
「いいえ」
と言った。
普通の人ならわからない"おにいちゃん"とのやりとりが、そのひとには見えてしまっていたから、そのひとは笑っていたんだと思う。
そのあとは、何の話をしたのかあまり覚えていない。
でも何かの話の途中で、ふと、そのひとは言った。
「亡くなった人がどこへ行くか、知ってますか」
「──天国にいく?」
「そうですね。どこへ行くにしても、この世からは旅立たないといけない」
そのひとは頷きながら言った。
「けれど、何か理由があってこの世に残ってしまう人もいるんです」
「……………」
そう言われて、私はすぐに"おにいちゃん"の話だな、とわかった。
そのひとは私を通り越して、まっすぐ"おにいちゃん"を見た。
「その理由を、教えてもらえませんか」
私が振り返ると、"おにいちゃん"は怖い顔で黙り込んでいる。
そのひとは"おにいちゃん"の気持ちを解そうと思ったのか、少し優しい口振りになって言った。
「突然の死に、この世への未練が残る気持ちはよくわかります」
けど、"おにいちゃん"の取った態度は、間逆のものだった。
── あんたも しにん だから わかるのか ──
"おにいちゃん"の言葉に、今度はそのひとが黙り込む番だった。
── みんな いってる あんたは ししゃ の しにがみ だって ──
── ししゃ の くび をかって いきているんだって ──
「………今は私の話じゃない。あなたの話です。もう何年くらい、そうしているんですか。三十年?四十年?」
── …………… ──
そのひとは私を示しながら言った。
「この先いつまで、彼女を自分の代わりにするつもりですか。彼女の子供や、そのまた子供たちにも、同じようにするつもりですか」
── …………… ──
いつまで経っても"おにいちゃん"が何も言わないから、そのひとは少しだけ、強い口調になって言った。
「魂胆は、わかってる。本当は肉体が欲しいんでしょう?でも今は、チカラが足りなくて憑依が出来ない。だから時が経ち、チカラがつくのを待ってる」
言葉の意味の全てはわからなかったけど、私はだんだんと怖くなってきて、その場から逃げ出したい気持ちになっていた。
「肉体を得たいのなら、浄化して新たな命を手に入れたほうがいい。自分では終わらせられないというのなら、私が手伝います」
そのひとの言葉に、"おにいちゃん"は首を横に振った。
── きおく が なくなってしまう ──
「転生すれば、いい思い出をたくさん作れます。死霊としての記憶など、どうせ寂しいものばかりでしょう」
── !!! ──
私はその時初めて、"おにいちゃん"が本気で怒るのを見た。
小さな雷のようなものが空中に一瞬だけ光って、誰も何も触ってないのに、そのひとの頬に血の筋が浮かんだ。
── しぬまえの おかあさんの きおく がある ──
"おにいちゃん"は眼に怒りを溜めて言った。
── なくすわけには いかない ──
そのひとは頬の血を拭うと、静かに言った。
「それが、心残りだったんですね」
その口調はとても落ち着いていて、"おにいちゃん"とはまるで対照的だった。
「あなたのお母さんが病を患っているのは知っていますね。もう、先が長くないことも」
── ……しってる ──
「ならば、彼女がこの世を旅立つとき、あちらで待っていてあげたらどうですか」
とてもゆっくりと話すそのひとの声を聴いているうちに、私の中の怖い気持ちはどんどん薄れていって、すっかり落ち着いた気分になれた。"おにいちゃん"に対しても同じ効果があったみたいで、さっきまでの怒りはどこかへ行ってしまったようにじっと話を聞いている。
「来世までの道を、手を引いてあげるんです」
"おにいちゃん"の顔が、驚いた顔になった。
「そうすれば、再び彼女の子供として、生を受けられるかもしれない」
そのひとの言葉は、"おにいちゃん"にとってものすごく効果的だった。
── わかった ──
頷く"おにいちゃん"を見つめながら、私にはその気持ちがよくわかっていた。
"おにいちゃん"はきっと生まれ変わることよりも、お母さんと手を繋ぐという行為に心惹かれたんだと思う。
一瞬、心の中で何かを感じたけど、それは隣で複雑に動き出した手の運びにかき消されてしまった。
大きな手を素早く動かした後でそのひとが何かの呪文をとなえると、不思議なことに掌の中に大きな電球のようなものがうまれた。
その光がどんどん明るさを増して、パアッと四方に拡がっていく。
やがて光が、"おにいちゃん"をのみこむくらい大きくなって、その姿をかき消してしまう直前。
── ゲ ン キ デ ──
"おにいちゃん"がこちらに向かって手をあげたのが見えた。
「"おにいちゃん"!」
私も色々と言いたいことがあったけど、耳が急にキーンと鳴りだしてうまく伝えることができない。
眩しい光は急速に収まって、そのまま"おにいちゃん"を連れていってしまった。
耳鳴りはしばらく続いて、やっと落ち着いた頃、
「寂しくなりますね」
そのひとが、そっと言った。
私の目にはまだ、手をあげた"おにいちゃん"の姿が焼きついている。
「うん………」
返事をしているうちに私の目からは涙が溢れ出してきて、終いにはしゃくりあげながら泣いてしまった。
お寺からの帰り、私は母から"おにいちゃん"が誰だったかを聞かされた。
"おにいちゃん"は実は、母の兄で、母の生まれるずっと前に事故で亡くなったのだそうだ。
母も小さい頃には"おにいちゃん"がいつも傍にいたけれど、そのうちにいなくなってしまった。だから、私が"おにいちゃん"が見えると言い出すまで、そんなことはすっかり忘れていたらしい。妹に忘れ去られてずっと独りぼっちだった"おにいちゃん"の心境を思うと、私は未だに涙が出そうになる。
両親は、そのうちに私も"おにいちゃん"が見えなくなるだろうと考えていた。
しかし私がいつまで経っても変わらない様子だったから、心配になって知り合いに相談したところ、有名なお寺があると紹介されたのだそうだ。
それから少し経って、私が"おにいちゃん"のいない寂しさにやっと慣れてきた頃、ずっと入院したきりだった祖母が亡くなった。
通夜の日、みんなはすごく悲しんでいたけれど、私は全然悲しくなかった。
祖母に会えなくなるのは寂しいけど、"おにいちゃん"はやっと、お母さんに会えたのだ。今頃手を繋いで、一緒に歩いているんだろうと思うと、嬉しくさえ思った。
私は涙を流す人たちを眺めながら、祖母のところへ見舞いに行ったときだけにみせていた"、おにいちゃん"の嬉しそうな笑顔を思い出していた。
この出来事を思い返す度に思うのは、"おにいちゃん"が逝ってしまって泣きじゃくる私を、そっとして置いてくれたあのひとの優しさだ。
あのひとは騒ぎ立てず、誰かを呼んだりもせず、ただ何も言わずに隣にいてくれた。
私には、それがすごくありがたかった。
涙を流すことでしか、収まらない感情もある、と私は思う。
あのときの私は慰めの言葉なんて欲しくなかったし、親に抱きしめてもらいたいとも思えなかった。
あのひとはきっと、理詰めでは解決できない悲しみを、知っているひとだった。
他のものでは代わりきかないぬくもりを、知っているひとだった。
当時の私はあのひとのことをおにいさんと呼んだけど、やっぱり相当、歳のいってるひとだったのかもしれない。