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短編Index


 子供の頃は、大人を見てもその人がいくつなのか全然わからなかった。
 だから今でも時々、あのひとはいくつくらいの人だったんだろう、と思い返すことがある。
 昔の事すぎてよく覚えていないけど、すごく若かった気もするし、意外に歳がいっていた気もする。
 でも、当時の私はそのひとのことをおにいさんと呼んだから、やっぱり若いひとだったんだと思う。



 その時、私は6歳だった。
 今とは全く違って、髪は短く半袖に短パン、いつも男の子と間違われていた頃だ。
 その日は両親に連れられて、栃木とか群馬とか、あっちのほうのお寺までやってきていた。車を持たない両親がわざわざレンタカーを借りて高速道路まで使ったことは覚えている。
 お寺に着くと、両親は私に遊んでいるように言って、本堂の横にある事務所のようなところへ入っていった。私はどうしてこんな場所へ来たのかもよくわからないまま、境内で遊び始めたのだ。
 そこへ、あのひとは現れた。
 小学校に上がって隣のクラスのユウタくんを初めて見た時、世の中にはこんなにかっこいい男の子がいるんだなあ、と見とれてしまったことがあったけど、その時と同じように私は、そのひとの容姿から目が離せなくなってしまった。
 かっこいいという形容詞は、俗っぽくてあまり似合わない。
 まるで、自分たちとは違う世界からやって来たような雰囲気があった。
 例えば、外国の映画の中から抜け出てきたかのような。
「こんにちは」
 話しかけられて我に返った私は、そのひとが僧衣姿であることに気がついた。
「おにいさんもおぼうさん?」
「ええ、そうですよ」
「わかいのに?」
 私はその頃、お坊さんと言えば老人しかいないと思っていたのだ。
「あなたに比べたら、さほど若くはありません」
 その人は微笑って言った。
 知らない人に"あなた"なんて呼ばれたのは、そのときが初めてだったかもしれない。
 名前で呼ばれる以外ではいつも、ぼうやとか、ぼっちゃんとか、ぼくとか呼ばれていたから。
 私をきちんと大人扱いしてくれたそのひとは、突拍子もなく、
「お兄さんと、仲がいいんですね」
と言った。
 私はびっくりして、目を丸くした。
「どうしてわかるの?」
「恰好がそっくりなので」
「…………"おにいちゃん"がみえるの?」
「ええ、もちろん。けれど、私はどうも嫌われているようですね」
 私が斜め後ろを振り返ると、"おにいちゃん"はそのひとを怖い顔で睨みつけていた。

 私には、物心がついた時から、私にしか見えない"おにいちゃん"がいた。
 "おにいちゃん"はずっと5歳で、歳を取ることはない。
 だから少し前に、私は"おにいちゃん"より年上になってしまったけど、でもやっぱり"おにいちゃん"は"おにいちゃん"だ。
 "おにいちゃん"は色々とうるさかった。
 私がピンクの服を着ようとすると、青がいいという。
 髪を伸ばしてみつあみがしたいと言うと、もっと短く切れという。
 ぬいぐるみが欲しくてもミニカーを買ってもらえというし、女の子たちのいる砂場で遊びたくても、男の子たちのいる鉄棒に行けという。
 本当はそんなことしたくなかったけど、"おにいちゃん"はしたくてもできないんだと思うと、なんとなく自分がやってあげようと思ってしまうのだ。
「優しいですね」
 "おにいちゃん"の話をそんな風にしたら、そのひとはそう言った。
── ほめられたら おれいをいわないと ──
 斜め後ろから声がしたから、慌てて
「ありがとう」
と言うと、そのひとは笑いながら、
「いいえ」
と言った。
 普通の人ならわからない"おにいちゃん"とのやりとりが、そのひとには見えてしまっていたから、そのひとは笑っていたんだと思う。

 そのあとは、何の話をしたのかあまり覚えていない。
 でも何かの話の途中で、ふと、そのひとは言った。
「亡くなった人がどこへ行くか、知ってますか」
──天国にいく?」
「そうですね。どこへ行くにしても、この世からは旅立たないといけない」
 そのひとは頷きながら言った。
「けれど、何か理由があってこの世に残ってしまう人もいるんです」
「……………」
 そう言われて、私はすぐに"おにいちゃん"の話だな、とわかった。
 そのひとは私を通り越して、まっすぐ"おにいちゃん"を見た。
「その理由を、教えてもらえませんか」
 私が振り返ると、"おにいちゃん"は怖い顔で黙り込んでいる。
 そのひとは"おにいちゃん"の気持ちを解そうと思ったのか、少し優しい口振りになって言った。
「突然の死に、この世への未練が残る気持ちはよくわかります」
 けど、"おにいちゃん"の取った態度は、間逆のものだった。
── あんたも しにん だから わかるのか ──
 "おにいちゃん"の言葉に、今度はそのひとが黙り込む番だった。
── みんな いってる  あんたは ししゃ の しにがみ だって ──
── ししゃ の くび をかって いきているんだって ──
「………今は私の話じゃない。あなたの話です。もう何年くらい、そうしているんですか。三十年?四十年?」
── …………… ──
 そのひとは私を示しながら言った。
「この先いつまで、彼女を自分の代わりにするつもりですか。彼女の子供や、そのまた子供たちにも、同じようにするつもりですか」
── …………… ──
 いつまで経っても"おにいちゃん"が何も言わないから、そのひとは少しだけ、強い口調になって言った。
「魂胆は、わかってる。本当は肉体が欲しいんでしょう?でも今は、チカラが足りなくて憑依が出来ない。だから時が経ち、チカラがつくのを待ってる」
 言葉の意味の全てはわからなかったけど、私はだんだんと怖くなってきて、その場から逃げ出したい気持ちになっていた。
「肉体を得たいのなら、浄化して新たな命を手に入れたほうがいい。自分では終わらせられないというのなら、私が手伝います」
 そのひとの言葉に、"おにいちゃん"は首を横に振った。
── きおく が なくなってしまう ──
「転生すれば、いい思い出をたくさん作れます。死霊としての記憶など、どうせ寂しいものばかりでしょう」
── !!! ──
 私はその時初めて、"おにいちゃん"が本気で怒るのを見た。
 小さな雷のようなものが空中に一瞬だけ光って、誰も何も触ってないのに、そのひとの頬に血の筋が浮かんだ。
── しぬまえの おかあさんの きおく がある ──
 "おにいちゃん"は眼に怒りを溜めて言った。
── なくすわけには いかない ──
 そのひとは頬の血を拭うと、静かに言った。
「それが、心残りだったんですね」
 その口調はとても落ち着いていて、"おにいちゃん"とはまるで対照的だった。
「あなたのお母さんが病を患っているのは知っていますね。もう、先が長くないことも」
── ……しってる ──
「ならば、彼女がこの世を旅立つとき、あちらで待っていてあげたらどうですか」
 とてもゆっくりと話すそのひとの声を聴いているうちに、私の中の怖い気持ちはどんどん薄れていって、すっかり落ち着いた気分になれた。"おにいちゃん"に対しても同じ効果があったみたいで、さっきまでの怒りはどこかへ行ってしまったようにじっと話を聞いている。
「来世までの道を、手を引いてあげるんです」
 "おにいちゃん"の顔が、驚いた顔になった。
「そうすれば、再び彼女の子供として、生を受けられるかもしれない」
 そのひとの言葉は、"おにいちゃん"にとってものすごく効果的だった。
── わかった ──
 頷く"おにいちゃん"を見つめながら、私にはその気持ちがよくわかっていた。
 "おにいちゃん"はきっと生まれ変わることよりも、お母さんと手を繋ぐという行為に心惹かれたんだと思う。
 一瞬、心の中で何かを感じたけど、それは隣で複雑に動き出した手の運びにかき消されてしまった。
 大きな手を素早く動かした後でそのひとが何かの呪文をとなえると、不思議なことに掌の中に大きな電球のようなものがうまれた。
 その光がどんどん明るさを増して、パアッと四方に拡がっていく。
 やがて光が、"おにいちゃん"をのみこむくらい大きくなって、その姿をかき消してしまう直前。
──  ゲ ン キ デ ──
 "おにいちゃん"がこちらに向かって手をあげたのが見えた。
「"おにいちゃん"!」
 私も色々と言いたいことがあったけど、耳が急にキーンと鳴りだしてうまく伝えることができない。
 眩しい光は急速に収まって、そのまま"おにいちゃん"を連れていってしまった。
 耳鳴りはしばらく続いて、やっと落ち着いた頃、
「寂しくなりますね」
 そのひとが、そっと言った。
 私の目にはまだ、手をあげた"おにいちゃん"の姿が焼きついている。
「うん………」
 返事をしているうちに私の目からは涙が溢れ出してきて、終いにはしゃくりあげながら泣いてしまった。

 お寺からの帰り、私は母から"おにいちゃん"が誰だったかを聞かされた。
 "おにいちゃん"は実は、母の兄で、母の生まれるずっと前に事故で亡くなったのだそうだ。
 母も小さい頃には"おにいちゃん"がいつも傍にいたけれど、そのうちにいなくなってしまった。だから、私が"おにいちゃん"が見えると言い出すまで、そんなことはすっかり忘れていたらしい。妹に忘れ去られてずっと独りぼっちだった"おにいちゃん"の心境を思うと、私は未だに涙が出そうになる。
 両親は、そのうちに私も"おにいちゃん"が見えなくなるだろうと考えていた。
 しかし私がいつまで経っても変わらない様子だったから、心配になって知り合いに相談したところ、有名なお寺があると紹介されたのだそうだ。
 それから少し経って、私が"おにいちゃん"のいない寂しさにやっと慣れてきた頃、ずっと入院したきりだった祖母が亡くなった。
 通夜の日、みんなはすごく悲しんでいたけれど、私は全然悲しくなかった。
 祖母に会えなくなるのは寂しいけど、"おにいちゃん"はやっと、お母さんに会えたのだ。今頃手を繋いで、一緒に歩いているんだろうと思うと、嬉しくさえ思った。
 私は涙を流す人たちを眺めながら、祖母のところへ見舞いに行ったときだけにみせていた"、おにいちゃん"の嬉しそうな笑顔を思い出していた。



 この出来事を思い返す度に思うのは、"おにいちゃん"が逝ってしまって泣きじゃくる私を、そっとして置いてくれたあのひとの優しさだ。
 あのひとは騒ぎ立てず、誰かを呼んだりもせず、ただ何も言わずに隣にいてくれた。
 私には、それがすごくありがたかった。
 涙を流すことでしか、収まらない感情もある、と私は思う。
 あのときの私は慰めの言葉なんて欲しくなかったし、親に抱きしめてもらいたいとも思えなかった。
 あのひとはきっと、理詰めでは解決できない悲しみを、知っているひとだった。
 他のものでは代わりきかないぬくもりを、知っているひとだった。
 当時の私はあのひとのことをおにいさんと呼んだけど、やっぱり相当、歳のいってるひとだったのかもしれない。
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