苛立ちと焦りが、直江の眉間にわずかな陰を作っている。
しかし一見すれば、鉄の仮面を張り付けたかのような無表情だ。
室戸方面の札所周辺を数日かけて回った後、アジトへと戻って来たばかりの直江は、誰もいない会議室で集めてきた資料をテーブルに広げ、睨みつけていた。
とそこへ霊体の隊士が三人、世間話をしながら入って来る。が、直江が一瞥すると、回れ右でこそこそと部屋を出て行ってしまった。
直江が三人を見る眼には、憎しみに近い色が宿っていた。
あの三人が三人とも、望みさえすれば死遍路となって遍路道を歩き、自分だけの仰木高耶を手にすることが出来る。敗北者としてのやりきれなさを、彼にぶつけ、昇華し、浄化することが出来る……。
直江は、気に入らなかった。
自分が長年魂を賭して彼と向き合い手にしてきたポジションを、簡単に手にすることの出来る怨霊たちも、それをいとも簡単に与えてしまう高耶も、気に入らない。そして何より、そんな状況を黙って見ていることしか出来ない自分自身が気に入らない。
いまや日本全国の怨霊が、直江のライバルだ。いや、怨霊だけではないかもしれない。自分だけの理解者、仰木高耶。現代人だってそれを、"死ぬ"だけで簡単に手にすることができる。
死遍路たちの"今空海信仰"は篤く、今ではそれが現代人の間にまで飛び火しつつある。そのうちに、高耶を得たいが為に自殺する人間まで出るのではあるまいか。直江はそんな危惧すら抱いていた。こんな状況になることを、彼は想定していたのだろうか。
彼が全ての魂の理解者で在りたいというのなら、それでもいい。彼がどんなに大きく腕を広げようとも、彼に向かって手を広げる人間はひとり、自分だけ。彼自身の理解者は自分しかいないのだから。彼の苦悩を、苛立ちと焦りを、高い志を、深い愛情を、虚像ではない本当の身体、声、眼差し、髪の感触、唾液の味、白い毒液の甘さ……。そういったものをわかっているのは自分だけ。高耶に取って、彼らと自分では全く次元の違う存在……。
直江の口端が、わずかに歪む。
そうやって必死に自分を慰めてみても、何にもならならないことはわかっていた。考えれば考えるほど、虚しさは増すばかりだ。
自分は彼の心を理解はしても、同調はできなかったではないか。赤鯨衆の幹部たちの方がまだ、高耶の心に近い場所にいたではないか。彼のことを誰よりも知っていながら、全力で否定することしか出来なかった臆病者。自らの存在価値が失われることを恐れるあまり、果たすべき責任を棄ててしまった愚か者。魂の、失業者だ。
あの時の自分の判断が、間違っていたとは思わない。
ただ、自分は失敗したのだ。あの敗北の瞬間、永遠に失ったのだ。彼に同調し、より強い絆を得る機会と、ソウルバーストという悪魔の顔をした現実を打ち負かす手段を。
直江は疲れ切った様子で、掌を額にやった。
直江と言う魂核史上最大の失敗の記憶が、直江を無表情たらしめていた。
(少し休もう)
頭がぼんやりとしている。先程から思考があまりうまくいっていない。寝なくてはいけないことはわかっているのだ。
でも、眠るのが怖かった。夢をみるのが怖かった。何を怖いと思うのか、それすら考えるのが怖い。
今度は恐怖が、直江の無表情の主たる成分となりかけたその時。
ド……ドン……
何かの爆発音が聞こえてハッと顔を上げる。
耳を済ませると、再びその音が鳴った。
(そういえば……)
どこかで花火大会があるとか言っていた。
(そんな季節か……)
言われても、あまりピンとは来なかった。身体が、今の季節を夏と認識していないからなのだろう。季節の変化がなくなって初めて、四季というものがどれだけ身体に染み付いていたかがよくわかる。
肌で感じるちょっとした空気の変化や、自然と視界に入ってくる道端や軒先の草花、日照時間。それらを意識することはなくとも、身体が勝手に捉えていたのだろう。
案外、浄土とはこういう世界なのかもしれないと思った。暑すぎる夏もなく、寒すぎる冬もない。そもそも霊体が気温を感じることはない。生きている間にまどわされた問題から遠ざかり、己の中のみを見つめる存在であるためならば、季節など必要ないのだろう。たとえ四国に四季が戻ったとしても、霊体のままの魂にとってはさして代わりのない世界にみえるかもしれない。
しかし生きた人間にしてみれば、やはり四季折々の変化が恋しくもなる。
四国の現代人たちが催すのは、花火大会だけではなかった。春には各地で"お花見"がこぞって開催された。紙や布造った桜を飾って、楽しむというものだ。それが五月には菖蒲になったし、六月にはあじさいになった。近頃は車で走っていると、道端に大きなひまわりをよくみかける。もちろん、よくみれば造花なのだが。
そう言った彼らの努力を眼にする度、直江は舌を巻く思いがした。変化のない……いや、生き物は徐々に死に行き、死者ばかりになりつつあるこの島を、彼らは決して見捨てないつもりでいるらしい。不思議なもので、そういった努力をしている人々の姿は、以前よりも生き生きとしてみえる。乗り越えるべきものを乗り越えようとする気力から来るものなのだろうか。
人間は強い。強く、したたかだ。
獣であれば本能でしか動かない。目の前に危険=死があれば、回避しようとしか思わない。
けれど人間には本能を超える能力がある。勇気、愛、願い、夢、希望。本能がどれだけ拒否しても、そこへ立ち向かっていける強さを、人は持っている。もう駄目かもしれないと思っても、人は必ず立ち上がる。現に彼らは、理不尽なものに精一杯立ち向かっている。
その力は一体どこからくるのだろう。
高耶もそうだ。高耶のあの美しいまでの強さは、人であるから持ち得るものだ。途方もない罪をかかえてまで、途方もない偉業を成し遂げようという発想は、人間にしか持ち得ない。もちろん高耶の場合、人間で在りたいという想いが強さを引きだしてはいるのだろうが……。
外に出てみると、遠い夜空に大輪の花が咲いていた。
灰色の空を背景に、見事に花弁を散らしている。
美しかった。
そして自分にまだ、花火を美しいと思える心が残っていることに驚いた。自分にも彼らと同じ、したたかさが宿っているのかもしれないとも思えた。
今の自分は苛立ちと恐怖で盲目となっている。
これでは見えるべきものも見落としてしまうかもしれない。
自分も人であるならば、彼らのような強さを持たねばならない。
もう無理だと思う自体をも、乗り越えて行ける強さを。
(あのひとは、どう思うだろう)
この花火を見て、何を思うのだろう。
彼がいま必死に立ち向かっているものの名は、責任、だ。あんなにたくさんの魂を抱え込み、自身の体調不安を抱え込み、信長という宿敵との戦いを抱え込み……。
押し潰されている高耶の心には、どう映るのだろう。
直江の脳裏に、遠い昔に見た笑顔が浮かぶ。確か仙台での事件の後、花火をしたことがあった。友人とはしゃぐ顔、妹を見守る顔、色とりどりの光が照らす表情を、自分は飽きずに眺めたものだった。
ふと思いついて、直江はある場所へと電話を掛けることにした。
「───そう、花火だ。あのひとに届けられるか?───いや、俺の名前は出さなくていい───ああ、悪いな───」
電話を切って、直江は思う。
高耶はこの島を、死人だけの島にしたかったわけじゃない。自分はその意向をくんで動いてやらねばいけない。
高耶が人で在りたいと願うように、自分にも在りたいと願う姿がひとつ、ある。
それを想えばきっと、自分にもしたたかさが宿るのではないだろうか。
直江は拳を握りしめた。
行動あるのみ、だ。
まずは、この島が生命の輝ける場所で在れるように。
前編 ≪≪
しかし一見すれば、鉄の仮面を張り付けたかのような無表情だ。
室戸方面の札所周辺を数日かけて回った後、アジトへと戻って来たばかりの直江は、誰もいない会議室で集めてきた資料をテーブルに広げ、睨みつけていた。
とそこへ霊体の隊士が三人、世間話をしながら入って来る。が、直江が一瞥すると、回れ右でこそこそと部屋を出て行ってしまった。
直江が三人を見る眼には、憎しみに近い色が宿っていた。
あの三人が三人とも、望みさえすれば死遍路となって遍路道を歩き、自分だけの仰木高耶を手にすることが出来る。敗北者としてのやりきれなさを、彼にぶつけ、昇華し、浄化することが出来る……。
直江は、気に入らなかった。
自分が長年魂を賭して彼と向き合い手にしてきたポジションを、簡単に手にすることの出来る怨霊たちも、それをいとも簡単に与えてしまう高耶も、気に入らない。そして何より、そんな状況を黙って見ていることしか出来ない自分自身が気に入らない。
いまや日本全国の怨霊が、直江のライバルだ。いや、怨霊だけではないかもしれない。自分だけの理解者、仰木高耶。現代人だってそれを、"死ぬ"だけで簡単に手にすることができる。
死遍路たちの"今空海信仰"は篤く、今ではそれが現代人の間にまで飛び火しつつある。そのうちに、高耶を得たいが為に自殺する人間まで出るのではあるまいか。直江はそんな危惧すら抱いていた。こんな状況になることを、彼は想定していたのだろうか。
彼が全ての魂の理解者で在りたいというのなら、それでもいい。彼がどんなに大きく腕を広げようとも、彼に向かって手を広げる人間はひとり、自分だけ。彼自身の理解者は自分しかいないのだから。彼の苦悩を、苛立ちと焦りを、高い志を、深い愛情を、虚像ではない本当の身体、声、眼差し、髪の感触、唾液の味、白い毒液の甘さ……。そういったものをわかっているのは自分だけ。高耶に取って、彼らと自分では全く次元の違う存在……。
直江の口端が、わずかに歪む。
そうやって必死に自分を慰めてみても、何にもならならないことはわかっていた。考えれば考えるほど、虚しさは増すばかりだ。
自分は彼の心を理解はしても、同調はできなかったではないか。赤鯨衆の幹部たちの方がまだ、高耶の心に近い場所にいたではないか。彼のことを誰よりも知っていながら、全力で否定することしか出来なかった臆病者。自らの存在価値が失われることを恐れるあまり、果たすべき責任を棄ててしまった愚か者。魂の、失業者だ。
あの時の自分の判断が、間違っていたとは思わない。
ただ、自分は失敗したのだ。あの敗北の瞬間、永遠に失ったのだ。彼に同調し、より強い絆を得る機会と、ソウルバーストという悪魔の顔をした現実を打ち負かす手段を。
直江は疲れ切った様子で、掌を額にやった。
直江と言う魂核史上最大の失敗の記憶が、直江を無表情たらしめていた。
(少し休もう)
頭がぼんやりとしている。先程から思考があまりうまくいっていない。寝なくてはいけないことはわかっているのだ。
でも、眠るのが怖かった。夢をみるのが怖かった。何を怖いと思うのか、それすら考えるのが怖い。
今度は恐怖が、直江の無表情の主たる成分となりかけたその時。
ド……ドン……
何かの爆発音が聞こえてハッと顔を上げる。
耳を済ませると、再びその音が鳴った。
(そういえば……)
どこかで花火大会があるとか言っていた。
(そんな季節か……)
言われても、あまりピンとは来なかった。身体が、今の季節を夏と認識していないからなのだろう。季節の変化がなくなって初めて、四季というものがどれだけ身体に染み付いていたかがよくわかる。
肌で感じるちょっとした空気の変化や、自然と視界に入ってくる道端や軒先の草花、日照時間。それらを意識することはなくとも、身体が勝手に捉えていたのだろう。
案外、浄土とはこういう世界なのかもしれないと思った。暑すぎる夏もなく、寒すぎる冬もない。そもそも霊体が気温を感じることはない。生きている間にまどわされた問題から遠ざかり、己の中のみを見つめる存在であるためならば、季節など必要ないのだろう。たとえ四国に四季が戻ったとしても、霊体のままの魂にとってはさして代わりのない世界にみえるかもしれない。
しかし生きた人間にしてみれば、やはり四季折々の変化が恋しくもなる。
四国の現代人たちが催すのは、花火大会だけではなかった。春には各地で"お花見"がこぞって開催された。紙や布造った桜を飾って、楽しむというものだ。それが五月には菖蒲になったし、六月にはあじさいになった。近頃は車で走っていると、道端に大きなひまわりをよくみかける。もちろん、よくみれば造花なのだが。
そう言った彼らの努力を眼にする度、直江は舌を巻く思いがした。変化のない……いや、生き物は徐々に死に行き、死者ばかりになりつつあるこの島を、彼らは決して見捨てないつもりでいるらしい。不思議なもので、そういった努力をしている人々の姿は、以前よりも生き生きとしてみえる。乗り越えるべきものを乗り越えようとする気力から来るものなのだろうか。
人間は強い。強く、したたかだ。
獣であれば本能でしか動かない。目の前に危険=死があれば、回避しようとしか思わない。
けれど人間には本能を超える能力がある。勇気、愛、願い、夢、希望。本能がどれだけ拒否しても、そこへ立ち向かっていける強さを、人は持っている。もう駄目かもしれないと思っても、人は必ず立ち上がる。現に彼らは、理不尽なものに精一杯立ち向かっている。
その力は一体どこからくるのだろう。
高耶もそうだ。高耶のあの美しいまでの強さは、人であるから持ち得るものだ。途方もない罪をかかえてまで、途方もない偉業を成し遂げようという発想は、人間にしか持ち得ない。もちろん高耶の場合、人間で在りたいという想いが強さを引きだしてはいるのだろうが……。
外に出てみると、遠い夜空に大輪の花が咲いていた。
灰色の空を背景に、見事に花弁を散らしている。
美しかった。
そして自分にまだ、花火を美しいと思える心が残っていることに驚いた。自分にも彼らと同じ、したたかさが宿っているのかもしれないとも思えた。
今の自分は苛立ちと恐怖で盲目となっている。
これでは見えるべきものも見落としてしまうかもしれない。
自分も人であるならば、彼らのような強さを持たねばならない。
もう無理だと思う自体をも、乗り越えて行ける強さを。
(あのひとは、どう思うだろう)
この花火を見て、何を思うのだろう。
彼がいま必死に立ち向かっているものの名は、責任、だ。あんなにたくさんの魂を抱え込み、自身の体調不安を抱え込み、信長という宿敵との戦いを抱え込み……。
押し潰されている高耶の心には、どう映るのだろう。
直江の脳裏に、遠い昔に見た笑顔が浮かぶ。確か仙台での事件の後、花火をしたことがあった。友人とはしゃぐ顔、妹を見守る顔、色とりどりの光が照らす表情を、自分は飽きずに眺めたものだった。
ふと思いついて、直江はある場所へと電話を掛けることにした。
「───そう、花火だ。あのひとに届けられるか?───いや、俺の名前は出さなくていい───ああ、悪いな───」
電話を切って、直江は思う。
高耶はこの島を、死人だけの島にしたかったわけじゃない。自分はその意向をくんで動いてやらねばいけない。
高耶が人で在りたいと願うように、自分にも在りたいと願う姿がひとつ、ある。
それを想えばきっと、自分にもしたたかさが宿るのではないだろうか。
直江は拳を握りしめた。
行動あるのみ、だ。
まずは、この島が生命の輝ける場所で在れるように。
前編 ≪≪
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夏。生命が輝きを増す季節。
肌を焼く熱い日差しに蝉の合唱。
したたる汗。それを拭うために手を持ち上げるのさえ億劫に思う。
道の端を、夏休み中の子供達がプールバックを片手に並んで歩く。
家に帰ればよく冷えた素麺がテーブルの上に並んでいて、食後のデザートには真っ赤に熟れたすいかが用意されている。
週末には近所の神社の境内で、町内会主催の納涼盆踊り大会が開かれる。
参道の両脇には夜店が並び、行きかう人々は皆、祭りの締めに行われる恒例のイベント、ナイアガラ花火を楽しみにしている。
毎年毎年、同じことの繰り返し。
小さな山車の周りに集まっている浴衣を着込んだ子供達が大きな神輿を担げる大人になっても、呼び込み文句を威勢よく張り上げる焼きそば屋の男性が声の嗄れた老人になっても、変わらずに同じことが繰り返される。
───はずだった。
当たり前のような夏の光景を、獣の咆哮が奪い去っていった。
「これ、よかったら」
剣山頂上のロッジへ食糧や消耗品を運び入れていた隊士が、思い出したように高耶の方へ紙袋を差し出した。
「この間、浦戸の方で花火大会があったんですよ」
高耶が袋を覗いてみると、中にはファミリー向けの小さな花火のセットが入っていた。
「まあ、以前よりは規模が小さかったらしいですけど」
「………そうか」
四国は現在大不況の真っただ中だから、開催資金が集まらなかったのだろう。それでも、たくさんの人出があったようだと隊士は話す。
「雰囲気だけでも味わってくださいよ、隊長」
彼は、現在の赤鯨衆の中で高耶を隊長と呼ぶ数少ない人間のうちのひとりだ。
「ありがとう」
去っていく車を見送りながら、高耶は袋の中から花火を取りだす。
(夏……か)
上着を何枚か羽織って、それでもまだ寒いくらいなのに。
現在の季節を、言葉で確認しあわなければわからないなんて。こんな事態、誰が想像していただろうか。
花火の袋の中には、花火大会のチラシまで一緒に入っていた。
そこには、"大事故"からの復興がうたわれている。
余裕のない生活の中で、それでも人々は前のような生活に戻ろうと必死なのだろう。
花火を袋へとしまって、高耶は空を見上げた。
金色の、幅広の帯の、その向こう。分厚い雲の一部にぼんやりと明るい場所がある。太陽だ。そんなところに隠れてないで、しっかりしろとさけびたい気持ちになった。自分が、太陽から大地を、また大地から太陽を奪い取った張本人だというのに。
太陽を目にしない生活と言うのは、不思議なものだった。
毎日なんとなく明るくなり、そして暗くなって初めて夜だと知る。朝焼けも夕焼けもない。生まれたばかりの子供達は、日の光を直接浴びたことがないはずだ。紫外線不足からくる身体への弊害を予防するためか、ビタミン剤の売り上げがうなぎのぼりなのだと聞いている。
どこかの国の技術を応用して雲を消し去ろうという計画もあったらしいが、頓挫した。
そういうものではないのだ、この雲は。
もし本当に消し去ろうと思うのなら、必要なのは祈祷呪術の類だろう。もちろん、そんな修法があれば、自分がとっくにやっている。
高耶の心に、見上げた空以上に重い暗雲が立ち込める。
天候不順による影響だけではない。景気低迷、電波・エネルギー問題、教育問題、介護問題、犯罪率増加、四国外への相次ぐ移住による急激な過疎化、四国の人々が抱える問題は、数え切れないほどに山積みだ。
高耶は眉根を寄せた。
全ては、自分に責任がある。
裏四国という"思想"が人々に受け入れられるのにはかなりの時間を要するだろうと言う覚悟は持っていたが、これではその前に四国そのものが破綻してしまう。本当に、死に人だけの島になってしまう。
本当なら自分が各地を歩いて、復興の指揮を取りたいところだった。しかし今は、何もかもが直江に任せっきりになってしまっている……。
高耶が抱えている問題は、現代人のことばかりではないのだ。
全国各地からやって来る怨霊たち。
耳を澄ませば、いつだって彼らの声が聞こえる。
荒々しいものばかりではない。さめざめと泣く声、ぶつぶつと呟く声、囁きのような掠れた声。そのすべてに、高耶は耳を傾け、何が最善の道なのか、一緒に考えてやらねばならない。
もちろんそれは、意識的に行われているものではない。
改めて命令せずとも呼吸をしたり、身体の細胞が生まれ変わり続けるのと似ている。高耶はいま、彼らと同じ身体で生きているようなものなのだ。四国の山々は高耶の肉であり、河川は血管も同様だ。
当然、呼吸を乱す何かがあれば、細胞内に悪い働きをするものが紛れ込めば、肉が削られ血の流れが妨げられるようなことがあれば、高耶にはすぐにわかるのだ。
各地の怨将たちが送り込んでくる刺客たち、四国内まだまだ残る三好や伊達の残党たち、そして赤鯨衆内の反対勢力。それらの排除を的確に行わないと、どんな事故が起こるかわからない。
なんせ、宿体を持たない死遍路たちは裸も同然だ。身体が傷つけば、魂までをも傷つけてしまうかもしれない。
信長は自分の弱点をよくわかっている。次に一体どんな手段に出てくるかはわからないが、何があってもこの島だけは護らなくてはならない。
高耶がそのこと考えてため息をつこうとした瞬間、
「────ッ……!」
鼻孔に、鉄の匂いが充満した。
「───げほッ……ッゲホ──ッ!」
高耶は背中を折り曲げると、喉の奥から溢れ出た液体を吐き出した。
喀血したのだ。
思わず袋を落として地面に手と膝をつく。ポタポタと、唇から血が滴り落ちた。
最近ではもう、珍しいことではなくなってしまった。
目や鼻や耳から、血が流れ出るのは日常茶飯事だ。
最初は、身体のあちこちから血が出るのと同じように、裏四国を為した反動かとも思った。しかしそれらは痛みを伴わない出血のはずだ。
今は胸に筋肉の攣るような痛みを感じ、酷い耳鳴りがした。明らかに種類が違う。
「………ッ」
今度は恐怖で、高耶の胸は締め付けられるように痛んだ。
急がなければならない。急がなければ───。
しかし、これ以上どうやって?
やるべきことが、すべきことがありすぎて、気持ちばかりが逸る。
分身が何千人も何万人もいたって、追いつかない。直江には、終わりをみては駄目だと言ったことがある。しかし、こなしてもこなしても、最終地点の影すら見えてこない……。
掌の下にある細かな砂利を握りしめる。ちっぽけで、何の存在の主張もしないこの小石は、きっと自分の身体が朽ちた後もこの世界に在り続けるのだろう。
生命には、何故期限があるのだろうか。魂は、何故六道を巡り続けなければならないのだろうか。それがこの世のルールならば、そのルールを造ったのは誰だ?しかし自分もまた、そのルールがあったからこそ生まれてくることが出来たのだ。そして、今の自分はもう、そのルールからも逸脱してしまった……。
そのルールを、この世界そのものを、今すぐ終わらせることの出来るボタンが目の前にあったら、自分はそのボタンを押すだろうか。いいや、自分は信長とは違う。そんなことは絶対にしないし、誰にもさせてはならない……。
小石を握っていた掌は、いつの間にか左手首で鈍く光る銀色の輪へと伸びていた。
ロッジに戻ると、床に寝そべっていた小太郎が顔をあげてこちらをみた。
「メシは?」
小太郎は、いらないというように首を元の位置へと戻す。
高耶は花火の袋をテーブルの上に置きながら、かつてこの男が夏の暑い日に言った言葉を思い出した。
───訓練さえつめば、汗の量はコントロールできるようになるんですよ
汗をかかない男に、理由を聞いたときだった。
当時自分はこの男を別人だと思い込んでいたから、脳内で再生されるその声も本来のこの男の声とは別のものだ。
自分のせいで、この男の人生は変わってしまった。そのことを、獣の姿となったこの男は一体どう思っているのだろう。こうして穏やかな寝顔を見ていると、そうした変化もこの男にとってはそんなに悪くはないものだったのではないかと思えてくる。
テーブルの上の花火を、再び手に取った。
花火は昔から、人の一生によく例えられてきた。
炎と言う命を点され、美しい輝きを放ち、やがて燃え尽きる、疑似生命。
生命の消えゆくこの島で、人々が花火に求めるものが、手に取るようにわかって痛々しかった。
半世紀。その間だけ我慢してくれ、と高耶は心の中で謝った。
終わらない生命がないのと同じ。終わらない季節もないのだから、と。
よくよく考えてみれば、あの小石だって元は大きな石だったのかもしれない。100年後には風化して、砂になってしまっているかもしれない。花火だって永遠に燃え続ければ、ただの厄介な火の玉だ。
半世紀を耐えればきっと、また四国にも夏の風景が戻ってくる。生命がより輝きを増す、あの季節が。
そして、その時自分は───。
……とにかく、物事の変化を悪く捉えすぎるのはよさなければ。
「小太郎」
声をかけると、小太郎はふたたび顔をあげた
「花火、したことあるか」
しゃがみこんで、目線の高さを合わせてやる。
「暗くなったら、卯太郎と一緒にやろう」
小太郎は傍へ寄ってきて、高耶の手にした花火の匂いを嗅いだ。
≫≫ 後編
肌を焼く熱い日差しに蝉の合唱。
したたる汗。それを拭うために手を持ち上げるのさえ億劫に思う。
道の端を、夏休み中の子供達がプールバックを片手に並んで歩く。
家に帰ればよく冷えた素麺がテーブルの上に並んでいて、食後のデザートには真っ赤に熟れたすいかが用意されている。
週末には近所の神社の境内で、町内会主催の納涼盆踊り大会が開かれる。
参道の両脇には夜店が並び、行きかう人々は皆、祭りの締めに行われる恒例のイベント、ナイアガラ花火を楽しみにしている。
毎年毎年、同じことの繰り返し。
小さな山車の周りに集まっている浴衣を着込んだ子供達が大きな神輿を担げる大人になっても、呼び込み文句を威勢よく張り上げる焼きそば屋の男性が声の嗄れた老人になっても、変わらずに同じことが繰り返される。
───はずだった。
当たり前のような夏の光景を、獣の咆哮が奪い去っていった。
「これ、よかったら」
剣山頂上のロッジへ食糧や消耗品を運び入れていた隊士が、思い出したように高耶の方へ紙袋を差し出した。
「この間、浦戸の方で花火大会があったんですよ」
高耶が袋を覗いてみると、中にはファミリー向けの小さな花火のセットが入っていた。
「まあ、以前よりは規模が小さかったらしいですけど」
「………そうか」
四国は現在大不況の真っただ中だから、開催資金が集まらなかったのだろう。それでも、たくさんの人出があったようだと隊士は話す。
「雰囲気だけでも味わってくださいよ、隊長」
彼は、現在の赤鯨衆の中で高耶を隊長と呼ぶ数少ない人間のうちのひとりだ。
「ありがとう」
去っていく車を見送りながら、高耶は袋の中から花火を取りだす。
(夏……か)
上着を何枚か羽織って、それでもまだ寒いくらいなのに。
現在の季節を、言葉で確認しあわなければわからないなんて。こんな事態、誰が想像していただろうか。
花火の袋の中には、花火大会のチラシまで一緒に入っていた。
そこには、"大事故"からの復興がうたわれている。
余裕のない生活の中で、それでも人々は前のような生活に戻ろうと必死なのだろう。
花火を袋へとしまって、高耶は空を見上げた。
金色の、幅広の帯の、その向こう。分厚い雲の一部にぼんやりと明るい場所がある。太陽だ。そんなところに隠れてないで、しっかりしろとさけびたい気持ちになった。自分が、太陽から大地を、また大地から太陽を奪い取った張本人だというのに。
太陽を目にしない生活と言うのは、不思議なものだった。
毎日なんとなく明るくなり、そして暗くなって初めて夜だと知る。朝焼けも夕焼けもない。生まれたばかりの子供達は、日の光を直接浴びたことがないはずだ。紫外線不足からくる身体への弊害を予防するためか、ビタミン剤の売り上げがうなぎのぼりなのだと聞いている。
どこかの国の技術を応用して雲を消し去ろうという計画もあったらしいが、頓挫した。
そういうものではないのだ、この雲は。
もし本当に消し去ろうと思うのなら、必要なのは祈祷呪術の類だろう。もちろん、そんな修法があれば、自分がとっくにやっている。
高耶の心に、見上げた空以上に重い暗雲が立ち込める。
天候不順による影響だけではない。景気低迷、電波・エネルギー問題、教育問題、介護問題、犯罪率増加、四国外への相次ぐ移住による急激な過疎化、四国の人々が抱える問題は、数え切れないほどに山積みだ。
高耶は眉根を寄せた。
全ては、自分に責任がある。
裏四国という"思想"が人々に受け入れられるのにはかなりの時間を要するだろうと言う覚悟は持っていたが、これではその前に四国そのものが破綻してしまう。本当に、死に人だけの島になってしまう。
本当なら自分が各地を歩いて、復興の指揮を取りたいところだった。しかし今は、何もかもが直江に任せっきりになってしまっている……。
高耶が抱えている問題は、現代人のことばかりではないのだ。
全国各地からやって来る怨霊たち。
耳を澄ませば、いつだって彼らの声が聞こえる。
荒々しいものばかりではない。さめざめと泣く声、ぶつぶつと呟く声、囁きのような掠れた声。そのすべてに、高耶は耳を傾け、何が最善の道なのか、一緒に考えてやらねばならない。
もちろんそれは、意識的に行われているものではない。
改めて命令せずとも呼吸をしたり、身体の細胞が生まれ変わり続けるのと似ている。高耶はいま、彼らと同じ身体で生きているようなものなのだ。四国の山々は高耶の肉であり、河川は血管も同様だ。
当然、呼吸を乱す何かがあれば、細胞内に悪い働きをするものが紛れ込めば、肉が削られ血の流れが妨げられるようなことがあれば、高耶にはすぐにわかるのだ。
各地の怨将たちが送り込んでくる刺客たち、四国内まだまだ残る三好や伊達の残党たち、そして赤鯨衆内の反対勢力。それらの排除を的確に行わないと、どんな事故が起こるかわからない。
なんせ、宿体を持たない死遍路たちは裸も同然だ。身体が傷つけば、魂までをも傷つけてしまうかもしれない。
信長は自分の弱点をよくわかっている。次に一体どんな手段に出てくるかはわからないが、何があってもこの島だけは護らなくてはならない。
高耶がそのこと考えてため息をつこうとした瞬間、
「────ッ……!」
鼻孔に、鉄の匂いが充満した。
「───げほッ……ッゲホ──ッ!」
高耶は背中を折り曲げると、喉の奥から溢れ出た液体を吐き出した。
喀血したのだ。
思わず袋を落として地面に手と膝をつく。ポタポタと、唇から血が滴り落ちた。
最近ではもう、珍しいことではなくなってしまった。
目や鼻や耳から、血が流れ出るのは日常茶飯事だ。
最初は、身体のあちこちから血が出るのと同じように、裏四国を為した反動かとも思った。しかしそれらは痛みを伴わない出血のはずだ。
今は胸に筋肉の攣るような痛みを感じ、酷い耳鳴りがした。明らかに種類が違う。
「………ッ」
今度は恐怖で、高耶の胸は締め付けられるように痛んだ。
急がなければならない。急がなければ───。
しかし、これ以上どうやって?
やるべきことが、すべきことがありすぎて、気持ちばかりが逸る。
分身が何千人も何万人もいたって、追いつかない。直江には、終わりをみては駄目だと言ったことがある。しかし、こなしてもこなしても、最終地点の影すら見えてこない……。
掌の下にある細かな砂利を握りしめる。ちっぽけで、何の存在の主張もしないこの小石は、きっと自分の身体が朽ちた後もこの世界に在り続けるのだろう。
生命には、何故期限があるのだろうか。魂は、何故六道を巡り続けなければならないのだろうか。それがこの世のルールならば、そのルールを造ったのは誰だ?しかし自分もまた、そのルールがあったからこそ生まれてくることが出来たのだ。そして、今の自分はもう、そのルールからも逸脱してしまった……。
そのルールを、この世界そのものを、今すぐ終わらせることの出来るボタンが目の前にあったら、自分はそのボタンを押すだろうか。いいや、自分は信長とは違う。そんなことは絶対にしないし、誰にもさせてはならない……。
小石を握っていた掌は、いつの間にか左手首で鈍く光る銀色の輪へと伸びていた。
ロッジに戻ると、床に寝そべっていた小太郎が顔をあげてこちらをみた。
「メシは?」
小太郎は、いらないというように首を元の位置へと戻す。
高耶は花火の袋をテーブルの上に置きながら、かつてこの男が夏の暑い日に言った言葉を思い出した。
───訓練さえつめば、汗の量はコントロールできるようになるんですよ
汗をかかない男に、理由を聞いたときだった。
当時自分はこの男を別人だと思い込んでいたから、脳内で再生されるその声も本来のこの男の声とは別のものだ。
自分のせいで、この男の人生は変わってしまった。そのことを、獣の姿となったこの男は一体どう思っているのだろう。こうして穏やかな寝顔を見ていると、そうした変化もこの男にとってはそんなに悪くはないものだったのではないかと思えてくる。
テーブルの上の花火を、再び手に取った。
花火は昔から、人の一生によく例えられてきた。
炎と言う命を点され、美しい輝きを放ち、やがて燃え尽きる、疑似生命。
生命の消えゆくこの島で、人々が花火に求めるものが、手に取るようにわかって痛々しかった。
半世紀。その間だけ我慢してくれ、と高耶は心の中で謝った。
終わらない生命がないのと同じ。終わらない季節もないのだから、と。
よくよく考えてみれば、あの小石だって元は大きな石だったのかもしれない。100年後には風化して、砂になってしまっているかもしれない。花火だって永遠に燃え続ければ、ただの厄介な火の玉だ。
半世紀を耐えればきっと、また四国にも夏の風景が戻ってくる。生命がより輝きを増す、あの季節が。
そして、その時自分は───。
……とにかく、物事の変化を悪く捉えすぎるのはよさなければ。
「小太郎」
声をかけると、小太郎はふたたび顔をあげた
「花火、したことあるか」
しゃがみこんで、目線の高さを合わせてやる。
「暗くなったら、卯太郎と一緒にやろう」
小太郎は傍へ寄ってきて、高耶の手にした花火の匂いを嗅いだ。
≫≫ 後編
「オレは……映像のようなもので魂は持っていないから、憑依はできない。けど……どうだろうな。もし、憑依できるなら………」
青年はしばらく悩んだ後で、
「一度だけ、試してみてしまうかもしれない。ほんの、短い間だけ、誰かに身体を借りて……そして……」
そのまま黙ってしまう青年の横で、私は何だか納得がいかなかった。
生きる意欲?肉体への執着?それがあれば、私は成仏する必要がないということか?
「私も憑依できるのか?」
問いかけると、青年は夢想から醒めたような顔になった。
そして、
「やってみるといい」
青年が顎で指し示した先には、カメラを持った若い男がいる。最近開発された、四国内でも使えるという最新式のカメラだ。どこかの報道機関の人間のように見える。
「どうやればいい」
「身体の中に入って、持ち主から主導権を奪うんだ」
私は頷くと、立ち上がって若者の方へと歩いて行った。
すると若者がこちらに気付いて、親しげに話しかけてくる。
「写真、取りますか?四国の外に御家族がいたりします?メッセージなどあれば、言付かりますが?」
それを聞いて、最近の新聞には四国の死者から寄せられた通信欄のようなものが必ずあることを思い出した。私は半信半疑だったからいつも読み飛ばしていたのだが、こういう事情があったのだな、と納得がいった。
「失礼します」
「え……!ちょ、ちょっと!」
私は一応断りを入ると、勢いをつけつつ思いきって若者の身体の中に飛び込んでみた。
すると。
「うわあっっ!!」
私は若者の身体から弾き返されて、地面に尻もちをついた。
「やめてくださいよ、もう」
当の若者はカメラを手にしたまま、頭をかいている。
いきなり憑依しようとするなんて、マナーがなってないよなあ、とかなんとか言いながら、彼は去って行ってしまった。
私は腰をさすりながら、仕方なく元の場所へと戻る。
一連の出来事を椅子に座ったまま眺めていた青年には、最初からこうなることがわかっていたらしい。
「簡単にはいかないだろう」
諭すように、そう言った。
「……いっつもこうだ」
私は再び胡坐をかくと、そう呟いた。
「誰かに憧れて真似をしてみても、絶対にうまくいかない。何か目標を持ってやってみても、達成できたためしがない」
いつも、あきらめてばかりの人生だった気がする。
「意志が弱いんだ……」
暗い気持ちになる私に、
「どうかな」
青年は首を傾げた。
「あんたは、誰かの真似をしていても、その人間と同じようにすること以外に道を見つけられたから同じにならなかったのかもしれない。定めた目標を達成する前に満足のいく結果を得られたから、無理して達成しようとはしなかったのかもしれない。それを、意思が弱いと呼ぶべきかどうか。自分自身をよく理解し、状況を判断する能力に長けているとも言えなくはないだろう?」
自分のことを、そんな風に言われたのは初めてだった。
「意思が強いとされる人間が目標を達成して、そのあとどうなる?きっと次の目標を掲げるだろう。その目標が達成されれば、その次。際限なく次へ、次へと……果たしてそれが、正しいことなのかどうか……」
青年は考えながら、先を続ける。
「オレは、そういう人間をひとり知ってる。そいつは、もっともっとと欲しがって、周囲を巻き込むだけ巻き込み、傷つけ、大勢の人間を殺し、この世の理までも根底から覆して……愛する人間に途方もない目標を押しつけて、死んでいった」
そこまで言うと、青年は私の目をまっすぐ見て言った。
「あんたは懸命だったから、そうならずに済んだのかもしれない」
青年が赤心を語ってくれたことがわかって、私も思わず本音で答えていた。
「そうかな……私がもっとうまく立ちまわれていれば、死なずにすんだのではないかな……」
「何言ってる。あんた、病気で死んだんだろ?」
「そうなんだけども」
「だったら、あんたが死んだのは、あんたのせいじゃない。なんだ、そんな風に考えてたのか?」
そう、私はそんな風に考えていたのだ。私は、人生のやり方を間違ったのではないかと。そのせいで死ぬことになってしまったのではないかと。そして、自分の人生が全て誤りであったという結論が出てしまうことが怖くて、過去を振り返ることができないでいる。もしかしたら、歩くことが嫌なのも、振り返る勇気が持てないからかもしれない……。
「答えは、あんたにしか出せないんだ」
青年はきっぱりと言った。
「そして普通、その答えは歩きながら考えるもんなんだけどな……」
どうしたもんか、という顔をしていた青年が、ハッと顔をあげた。まるで、誰かに呼ばれたかのように。
「あんた、運がいい」
その時、青年の笑うのを、私は初めて目にした。人の心を惹きつける、何とも魅力的な笑顔だった。
「もしも本当に、遍路道を歩かずともあの世に行ける方法があるとしたら、どうする?」
「え」
「今すぐこの場で、浄化出来るとしたら?」
「……そんなこと」
「浄化をしてしまえば、過去を振り返るチャンスは二度と来ない。そのことを踏まえて考えてみてくれ」
有無を言わさぬ強さでそう言うと、青年は腕組みをしたまま眼を閉じてしまった。
「…………」
考えろと言われても、困ってしまう。散々歩きたくないとゴネた身だ。けれど青年と話しているうちに、彼とともに歩いてみるのも悪くはないかもしれないと思い始めていた。人生を一から見つめ直すなんて、自分ひとりでは怖くて出来ないけれど、彼とふたりならば出来そうな気がする。もしどんな結果になったとしても、彼ならきっと的確なアドバイスをくれるだろう。
そう考えると、ゴールへ辿り着いた時に彼が自分に対してどんな言葉をかけてくれるのか、非常に興味が湧いてきた。
それからしばらく経って、青年は椅子からスッと立ち上がると、私に告げた。
「時間切れだ」
見ると駐車場に、一台の車が入って来る。停まった車からは、黒づくめの男がひとり、降りてきた。
「こっちだ」
青年が声をかけると、男はこちらへ向かって歩いてくる。
その男は、生身の人間のように見えた。が、実際のところはよくわからない。不思議な風貌の持ち主で、その容姿には関係なく、何か年月を超越したような雰囲気を持つ男だった。
青年と視線を合わせても、男は言葉を発さずに頷くのみだ。
「さあ、どうする?」
青年が、私に向かって言った。
「答えを聞こう」
私は深く息を吸うと、頭の中で準備しておいた答えを言った。
「歩いてみようと思う」
すると青年は、嬉しそうな表情になって頷いた。
「自分の中の答えを、何とか探し当てたいと思う。君も一緒に来てくれるんだろう」
「もちろんだ」
青年は私の言葉に応えると、今度は男の方に向き直った。
「だそうだ」
「ええ」
男は深く響く、印象的な声で答えた。
「浦戸に寄ってから剣山に向かうんだな?」
「そのつもりです」
「なら、足摺にも行ってくれ。少し、気が乱れてる」
「わかりました」
男はそう答えると、一礼してそのまま車へと戻っていく。
「───……」
男の後ろ姿を見送る青年の瞳は、もしかしたら私の思い違いかもしれないが、少し、切なげに見えた。
やがて車が出ていくと、
「さてと」
青年は私に向かって言った。
「オレの名前を言っておく」
そう言えば、私たちはまだ、自己紹介すらしていなかった。
「オレの名前は仰木高耶」
その名を聞いて、私はようやっと思い出した。世間に"今空海"の名を馳せながらも、若くして亡くなったという青年の話を……。
「あんたの名前は知ってるけど……何て呼べばいい?」
「私は───」
私は仰木高耶に、自分の苗字を言った。
青年はしばらく悩んだ後で、
「一度だけ、試してみてしまうかもしれない。ほんの、短い間だけ、誰かに身体を借りて……そして……」
そのまま黙ってしまう青年の横で、私は何だか納得がいかなかった。
生きる意欲?肉体への執着?それがあれば、私は成仏する必要がないということか?
「私も憑依できるのか?」
問いかけると、青年は夢想から醒めたような顔になった。
そして、
「やってみるといい」
青年が顎で指し示した先には、カメラを持った若い男がいる。最近開発された、四国内でも使えるという最新式のカメラだ。どこかの報道機関の人間のように見える。
「どうやればいい」
「身体の中に入って、持ち主から主導権を奪うんだ」
私は頷くと、立ち上がって若者の方へと歩いて行った。
すると若者がこちらに気付いて、親しげに話しかけてくる。
「写真、取りますか?四国の外に御家族がいたりします?メッセージなどあれば、言付かりますが?」
それを聞いて、最近の新聞には四国の死者から寄せられた通信欄のようなものが必ずあることを思い出した。私は半信半疑だったからいつも読み飛ばしていたのだが、こういう事情があったのだな、と納得がいった。
「失礼します」
「え……!ちょ、ちょっと!」
私は一応断りを入ると、勢いをつけつつ思いきって若者の身体の中に飛び込んでみた。
すると。
「うわあっっ!!」
私は若者の身体から弾き返されて、地面に尻もちをついた。
「やめてくださいよ、もう」
当の若者はカメラを手にしたまま、頭をかいている。
いきなり憑依しようとするなんて、マナーがなってないよなあ、とかなんとか言いながら、彼は去って行ってしまった。
私は腰をさすりながら、仕方なく元の場所へと戻る。
一連の出来事を椅子に座ったまま眺めていた青年には、最初からこうなることがわかっていたらしい。
「簡単にはいかないだろう」
諭すように、そう言った。
「……いっつもこうだ」
私は再び胡坐をかくと、そう呟いた。
「誰かに憧れて真似をしてみても、絶対にうまくいかない。何か目標を持ってやってみても、達成できたためしがない」
いつも、あきらめてばかりの人生だった気がする。
「意志が弱いんだ……」
暗い気持ちになる私に、
「どうかな」
青年は首を傾げた。
「あんたは、誰かの真似をしていても、その人間と同じようにすること以外に道を見つけられたから同じにならなかったのかもしれない。定めた目標を達成する前に満足のいく結果を得られたから、無理して達成しようとはしなかったのかもしれない。それを、意思が弱いと呼ぶべきかどうか。自分自身をよく理解し、状況を判断する能力に長けているとも言えなくはないだろう?」
自分のことを、そんな風に言われたのは初めてだった。
「意思が強いとされる人間が目標を達成して、そのあとどうなる?きっと次の目標を掲げるだろう。その目標が達成されれば、その次。際限なく次へ、次へと……果たしてそれが、正しいことなのかどうか……」
青年は考えながら、先を続ける。
「オレは、そういう人間をひとり知ってる。そいつは、もっともっとと欲しがって、周囲を巻き込むだけ巻き込み、傷つけ、大勢の人間を殺し、この世の理までも根底から覆して……愛する人間に途方もない目標を押しつけて、死んでいった」
そこまで言うと、青年は私の目をまっすぐ見て言った。
「あんたは懸命だったから、そうならずに済んだのかもしれない」
青年が赤心を語ってくれたことがわかって、私も思わず本音で答えていた。
「そうかな……私がもっとうまく立ちまわれていれば、死なずにすんだのではないかな……」
「何言ってる。あんた、病気で死んだんだろ?」
「そうなんだけども」
「だったら、あんたが死んだのは、あんたのせいじゃない。なんだ、そんな風に考えてたのか?」
そう、私はそんな風に考えていたのだ。私は、人生のやり方を間違ったのではないかと。そのせいで死ぬことになってしまったのではないかと。そして、自分の人生が全て誤りであったという結論が出てしまうことが怖くて、過去を振り返ることができないでいる。もしかしたら、歩くことが嫌なのも、振り返る勇気が持てないからかもしれない……。
「答えは、あんたにしか出せないんだ」
青年はきっぱりと言った。
「そして普通、その答えは歩きながら考えるもんなんだけどな……」
どうしたもんか、という顔をしていた青年が、ハッと顔をあげた。まるで、誰かに呼ばれたかのように。
「あんた、運がいい」
その時、青年の笑うのを、私は初めて目にした。人の心を惹きつける、何とも魅力的な笑顔だった。
「もしも本当に、遍路道を歩かずともあの世に行ける方法があるとしたら、どうする?」
「え」
「今すぐこの場で、浄化出来るとしたら?」
「……そんなこと」
「浄化をしてしまえば、過去を振り返るチャンスは二度と来ない。そのことを踏まえて考えてみてくれ」
有無を言わさぬ強さでそう言うと、青年は腕組みをしたまま眼を閉じてしまった。
「…………」
考えろと言われても、困ってしまう。散々歩きたくないとゴネた身だ。けれど青年と話しているうちに、彼とともに歩いてみるのも悪くはないかもしれないと思い始めていた。人生を一から見つめ直すなんて、自分ひとりでは怖くて出来ないけれど、彼とふたりならば出来そうな気がする。もしどんな結果になったとしても、彼ならきっと的確なアドバイスをくれるだろう。
そう考えると、ゴールへ辿り着いた時に彼が自分に対してどんな言葉をかけてくれるのか、非常に興味が湧いてきた。
それからしばらく経って、青年は椅子からスッと立ち上がると、私に告げた。
「時間切れだ」
見ると駐車場に、一台の車が入って来る。停まった車からは、黒づくめの男がひとり、降りてきた。
「こっちだ」
青年が声をかけると、男はこちらへ向かって歩いてくる。
その男は、生身の人間のように見えた。が、実際のところはよくわからない。不思議な風貌の持ち主で、その容姿には関係なく、何か年月を超越したような雰囲気を持つ男だった。
青年と視線を合わせても、男は言葉を発さずに頷くのみだ。
「さあ、どうする?」
青年が、私に向かって言った。
「答えを聞こう」
私は深く息を吸うと、頭の中で準備しておいた答えを言った。
「歩いてみようと思う」
すると青年は、嬉しそうな表情になって頷いた。
「自分の中の答えを、何とか探し当てたいと思う。君も一緒に来てくれるんだろう」
「もちろんだ」
青年は私の言葉に応えると、今度は男の方に向き直った。
「だそうだ」
「ええ」
男は深く響く、印象的な声で答えた。
「浦戸に寄ってから剣山に向かうんだな?」
「そのつもりです」
「なら、足摺にも行ってくれ。少し、気が乱れてる」
「わかりました」
男はそう答えると、一礼してそのまま車へと戻っていく。
「───……」
男の後ろ姿を見送る青年の瞳は、もしかしたら私の思い違いかもしれないが、少し、切なげに見えた。
やがて車が出ていくと、
「さてと」
青年は私に向かって言った。
「オレの名前を言っておく」
そう言えば、私たちはまだ、自己紹介すらしていなかった。
「オレの名前は仰木高耶」
その名を聞いて、私はようやっと思い出した。世間に"今空海"の名を馳せながらも、若くして亡くなったという青年の話を……。
「あんたの名前は知ってるけど……何て呼べばいい?」
「私は───」
私は仰木高耶に、自分の苗字を言った。
「嫌だ」
私は、再び首を横に振った。
青年は私の横に立って、呆れたような顔をしている。
「別に、ノルマがあるとかそういうんじゃない。あんたの歩きたいペースで、歩きたいように歩けばいい」
まあ、順番は決まってるけどな、と青年は付け足す。
「嫌だ」
私は、三度首を横に振った。
「……あっそ」
彼はくるりと後ろを向くと、そのまま歩いて行ってしまった。
それを見て、私は先程の強気な発言とは裏腹に、急に不安に襲われる。こんなところで放置されてしまって、一体この後どうしたらいいのだろう。
ここは、四国八十八カ所第一番札所・霊山寺の駐車場。
そこで私は、地面に胡坐をかき、腕組みをしながらしかめっ面をしている。
そのままどこかへ去ってしまうかと思われた青年は、社務所のすぐ傍に設けられた休憩所から椅子を一つ持ち上げると、戻ってきて私の隣に置いた。
「時間はたっぷりある。好きなだけゴネればいいさ」
そう言うと、青年は置いた椅子に腰掛けた。背もたれに寄りかかって、長い足をゆったりと組む。そうして腕組みで、駐車場に停まっているおんぼろマイクロバスの傍でたむろする賑やかな一行に眼を向け始めた。
私は、その横顔を恨めしい思いで見つめた。
黒いストレートの髪。健康的な肌色。言い知れぬ強さを秘めた赤茶色の不思議な瞳。奇妙なことに、私はこの青年の姿を幾人も見かけたが、他の青年たちは白い着物の姿であることが多く、同じ白ではあるが丈の長い印象的なコートを羽織っているのは"私の青年"だけだった。
映画にでも出てきそうな容姿をしたこの青年は、先程私に「あんたは死んだんだ」とストレートに告げてきた。
別に私はその態度が年上に対するものとは思えなかったから怒っている訳ではない。
ここへ辿りつく前に、もしかしたら私は死んだのかもなあ、とぼんやり思ってはいたから、告げられた事実に仰天して腹を立てている訳でもない。ちなみに言うと、同時に知らされたこの青年が成仏するまで見届けてくれるというおせっかいなシステムにも、いつの間にか着せられていたこの白い装束にも、別に文句を言うつもりはない。ただ私は、
「何で成仏するのに四国中を歩き回らなきゃいけないんだ!!」
このことに、怒っているのだ。
「結構、あっという間だぜ?もう一周したい、なんていう人だっているくらいだし」
「二周するとどうなる?スタンプカードが二枚になって、景品と交換できるのか?」
「……その発想は、無かったな」
青年は、再び呆れ顔になって私を見下ろしてきた。困ったヤツ、と思っているのがよくわかる。
私の中で、猛烈に反抗心が湧きあがる。
自慢じゃないが、生前の私は運動という代物には全く縁がなかった。
生来身体が丈夫じゃなかったという理由もあるが、何故好き好んで筋肉を酷使したり汗をかいたりしなければならないのか、さっぱりわからない。人間の身体は、日々の生活で充分にカロリーを消費出来る仕組みになっている。それを無視してまでカロリーを過剰消費し、それを補うためにカロリーを過剰摂取する……。馬鹿げている。
「巡回バスとか、タクシーを使っていいとか……」
「あんなのは、生身の人間が使うもんだ」
「そういえばさっき、君は姿を自由に変えられると言っていたな」
「オレに、他者の姿を投影する人もいるって言ったんだ」
「なら、乗り物になって欲しいと私が思えば、君は乗り物に変身できる?」
「……本気で言ってるのか」
ジロリと睨まれてしまった。
はあ、と私は深くため息をつく。本気だったのに。
「一体いつから……どうしてこんなルールができたのか……」
少なくとも私の両親が子供の頃には、こんなシステムはなかったはずだ。母は小さい頃高知に住んでいたから、以前の四国というものをその目で見て知っていた。"こう"なる前の四国には死者が集まることもなく、他と変わらない土地だったという。きっと大昔にあったという"大事故"や、APCDに関する一連の事件が……。
(ん?)
そう言えば私は、この青年の顔をどこかで見たことがあると思った。
「死んで、魂はどこへいく?」
「………?」
私は、隣に座る青年を見上げた。
「あの世、かな」
漠然と答えてみる。"あの世"というものの存在自体には疑問を持っているが、自分が成仏した後に行くべき場所に名前をつけるとしたら、それしかないだろう。
「そう」
青年は、当然といった顔で頷いた。
「しかしこの世に未練を残して死んだ魂は、あの世へは行けない。だからといってこの世に居場所が用意されている訳でもない。だから以前は、居場所を得るために生きている人間の身体を乗っ取るしかなかった」
「乗っ取る……」
「そう。そのせいで、この世に残ってしまった霊魂は、長らく存在してはいけない存在として扱われてきた」
青年は、遠い昔を振り返るような目つきになった。
「オレは、この世に未練を残して死ぬことは、罪ではないと思った。けれど生き人の身体を乗っ取って、人生を害することは罪だと思った。だから、このルールを実行することにしたんだ」
"ルールを実行"?聞き違いか、と一瞬自分の耳を疑ったが、いや、間違いなく彼はそう言った。つまり彼が、このシステムを作ったということか?
「ここでなら、生き人の生を害することなく、居場所を得ることができる」
驕った風でもなく、彼は素直にそう話した。まるで、今まで何百回、何千回もそう説明してきたかのように。そしてその様子は、相手にそのことが当然であると納得させる力を持っていた。
「つまり私は、未練があったからこの世に残ったのか」
「それはあんた自身のことだ。自分でよくわかってるだろう?」
「わからないから聞いているんだ」
「……そういったことも、本当は歩きながら考えるんだ。立ち止まらず、前に進むことでしか見えないものがあるからな」
「どうしても、歩かなくては駄目なのだろうか。今すぐに成仏する方法は、ないのだろうか」
「エスケープは、余程の理由が無い限り駄目だ。あんたはただ歩くのを面倒臭がって言ってるだけだろう?だったら、理由としては不十分だな」
私は、またため息をつくしかなかった。
やはり、歩かねばならないのだろうか。
すっかりうなだれてしまって、ぼんやりと社務所の様子を眺めていると、男性がひとり、何かの袋を手に持って出てきた。私の視線は、その人物に釘付けになる。
「あの男、生きてる人間とは何かが違う……」
「……憑依霊だからな」
「ヒョウイレイ?」
「つまり、生き人の身体を死者の魂が乗っ取った状態ってことだ」
そう言われて、えっと思った。
「それは、しなくてもよくなったんじゃなかったのか?」
青年は、痛いとこを突かれたとばかりに苦い顔になる。
「死者の中には、肉体を欲しがるものもいる」
「それを君は許してるのか!?」
「許してるのは、あの憑巫……つまりあの身体の本当の持ち主である魂だ。そいつの生きる意欲より、あの憑依霊の肉体への執着心が勝っているってことなんだ」
そんなのおかしい!、と私は思わず叫んでいた。
「身体は持ち主のものであるべきだろう!」
「そうだな……その通りだ。でもオレには、あの憑依霊が肉体にしがみつきたくなる気持ちを否定もできない。肉体を持ち、生きるということは、ものすごく……」
そこまで言って、青年は次の言葉を紡ぐのに、とても時間をかけた。
「ものすごく、素晴らしいことだ。もう一度、と思う気持ちもよくわかる」
そう言いながら、一方でそのことを許してはいないという意思もよく伝わってきた。青年の中に、死者の想いを否定したくないという気持ちと、生者の人生を護りたいという矛盾した気持ちがあることは、何となく察しがついた。そして、"素晴らしい"という表現に、もっと違った意味が込められているということも。
「君も、憑依したいと思っているのか」
私がそう言うと、青年はびっくりしたような顔をした。
私は、再び首を横に振った。
青年は私の横に立って、呆れたような顔をしている。
「別に、ノルマがあるとかそういうんじゃない。あんたの歩きたいペースで、歩きたいように歩けばいい」
まあ、順番は決まってるけどな、と青年は付け足す。
「嫌だ」
私は、三度首を横に振った。
「……あっそ」
彼はくるりと後ろを向くと、そのまま歩いて行ってしまった。
それを見て、私は先程の強気な発言とは裏腹に、急に不安に襲われる。こんなところで放置されてしまって、一体この後どうしたらいいのだろう。
ここは、四国八十八カ所第一番札所・霊山寺の駐車場。
そこで私は、地面に胡坐をかき、腕組みをしながらしかめっ面をしている。
そのままどこかへ去ってしまうかと思われた青年は、社務所のすぐ傍に設けられた休憩所から椅子を一つ持ち上げると、戻ってきて私の隣に置いた。
「時間はたっぷりある。好きなだけゴネればいいさ」
そう言うと、青年は置いた椅子に腰掛けた。背もたれに寄りかかって、長い足をゆったりと組む。そうして腕組みで、駐車場に停まっているおんぼろマイクロバスの傍でたむろする賑やかな一行に眼を向け始めた。
私は、その横顔を恨めしい思いで見つめた。
黒いストレートの髪。健康的な肌色。言い知れぬ強さを秘めた赤茶色の不思議な瞳。奇妙なことに、私はこの青年の姿を幾人も見かけたが、他の青年たちは白い着物の姿であることが多く、同じ白ではあるが丈の長い印象的なコートを羽織っているのは"私の青年"だけだった。
映画にでも出てきそうな容姿をしたこの青年は、先程私に「あんたは死んだんだ」とストレートに告げてきた。
別に私はその態度が年上に対するものとは思えなかったから怒っている訳ではない。
ここへ辿りつく前に、もしかしたら私は死んだのかもなあ、とぼんやり思ってはいたから、告げられた事実に仰天して腹を立てている訳でもない。ちなみに言うと、同時に知らされたこの青年が成仏するまで見届けてくれるというおせっかいなシステムにも、いつの間にか着せられていたこの白い装束にも、別に文句を言うつもりはない。ただ私は、
「何で成仏するのに四国中を歩き回らなきゃいけないんだ!!」
このことに、怒っているのだ。
「結構、あっという間だぜ?もう一周したい、なんていう人だっているくらいだし」
「二周するとどうなる?スタンプカードが二枚になって、景品と交換できるのか?」
「……その発想は、無かったな」
青年は、再び呆れ顔になって私を見下ろしてきた。困ったヤツ、と思っているのがよくわかる。
私の中で、猛烈に反抗心が湧きあがる。
自慢じゃないが、生前の私は運動という代物には全く縁がなかった。
生来身体が丈夫じゃなかったという理由もあるが、何故好き好んで筋肉を酷使したり汗をかいたりしなければならないのか、さっぱりわからない。人間の身体は、日々の生活で充分にカロリーを消費出来る仕組みになっている。それを無視してまでカロリーを過剰消費し、それを補うためにカロリーを過剰摂取する……。馬鹿げている。
「巡回バスとか、タクシーを使っていいとか……」
「あんなのは、生身の人間が使うもんだ」
「そういえばさっき、君は姿を自由に変えられると言っていたな」
「オレに、他者の姿を投影する人もいるって言ったんだ」
「なら、乗り物になって欲しいと私が思えば、君は乗り物に変身できる?」
「……本気で言ってるのか」
ジロリと睨まれてしまった。
はあ、と私は深くため息をつく。本気だったのに。
「一体いつから……どうしてこんなルールができたのか……」
少なくとも私の両親が子供の頃には、こんなシステムはなかったはずだ。母は小さい頃高知に住んでいたから、以前の四国というものをその目で見て知っていた。"こう"なる前の四国には死者が集まることもなく、他と変わらない土地だったという。きっと大昔にあったという"大事故"や、APCDに関する一連の事件が……。
(ん?)
そう言えば私は、この青年の顔をどこかで見たことがあると思った。
「死んで、魂はどこへいく?」
「………?」
私は、隣に座る青年を見上げた。
「あの世、かな」
漠然と答えてみる。"あの世"というものの存在自体には疑問を持っているが、自分が成仏した後に行くべき場所に名前をつけるとしたら、それしかないだろう。
「そう」
青年は、当然といった顔で頷いた。
「しかしこの世に未練を残して死んだ魂は、あの世へは行けない。だからといってこの世に居場所が用意されている訳でもない。だから以前は、居場所を得るために生きている人間の身体を乗っ取るしかなかった」
「乗っ取る……」
「そう。そのせいで、この世に残ってしまった霊魂は、長らく存在してはいけない存在として扱われてきた」
青年は、遠い昔を振り返るような目つきになった。
「オレは、この世に未練を残して死ぬことは、罪ではないと思った。けれど生き人の身体を乗っ取って、人生を害することは罪だと思った。だから、このルールを実行することにしたんだ」
"ルールを実行"?聞き違いか、と一瞬自分の耳を疑ったが、いや、間違いなく彼はそう言った。つまり彼が、このシステムを作ったということか?
「ここでなら、生き人の生を害することなく、居場所を得ることができる」
驕った風でもなく、彼は素直にそう話した。まるで、今まで何百回、何千回もそう説明してきたかのように。そしてその様子は、相手にそのことが当然であると納得させる力を持っていた。
「つまり私は、未練があったからこの世に残ったのか」
「それはあんた自身のことだ。自分でよくわかってるだろう?」
「わからないから聞いているんだ」
「……そういったことも、本当は歩きながら考えるんだ。立ち止まらず、前に進むことでしか見えないものがあるからな」
「どうしても、歩かなくては駄目なのだろうか。今すぐに成仏する方法は、ないのだろうか」
「エスケープは、余程の理由が無い限り駄目だ。あんたはただ歩くのを面倒臭がって言ってるだけだろう?だったら、理由としては不十分だな」
私は、またため息をつくしかなかった。
やはり、歩かねばならないのだろうか。
すっかりうなだれてしまって、ぼんやりと社務所の様子を眺めていると、男性がひとり、何かの袋を手に持って出てきた。私の視線は、その人物に釘付けになる。
「あの男、生きてる人間とは何かが違う……」
「……憑依霊だからな」
「ヒョウイレイ?」
「つまり、生き人の身体を死者の魂が乗っ取った状態ってことだ」
そう言われて、えっと思った。
「それは、しなくてもよくなったんじゃなかったのか?」
青年は、痛いとこを突かれたとばかりに苦い顔になる。
「死者の中には、肉体を欲しがるものもいる」
「それを君は許してるのか!?」
「許してるのは、あの憑巫……つまりあの身体の本当の持ち主である魂だ。そいつの生きる意欲より、あの憑依霊の肉体への執着心が勝っているってことなんだ」
そんなのおかしい!、と私は思わず叫んでいた。
「身体は持ち主のものであるべきだろう!」
「そうだな……その通りだ。でもオレには、あの憑依霊が肉体にしがみつきたくなる気持ちを否定もできない。肉体を持ち、生きるということは、ものすごく……」
そこまで言って、青年は次の言葉を紡ぐのに、とても時間をかけた。
「ものすごく、素晴らしいことだ。もう一度、と思う気持ちもよくわかる」
そう言いながら、一方でそのことを許してはいないという意思もよく伝わってきた。青年の中に、死者の想いを否定したくないという気持ちと、生者の人生を護りたいという矛盾した気持ちがあることは、何となく察しがついた。そして、"素晴らしい"という表現に、もっと違った意味が込められているということも。
「君も、憑依したいと思っているのか」
私がそう言うと、青年はびっくりしたような顔をした。
静けさを取り戻した川縁のその場所に騒がしい少年達の声が聞こえてきたのは、直江が去ってからしばらく経ってからだ。
「こっちこっち!」
「めんどくせーなー。どーせオレにはみえねーのに」
「じゃあ、図書館行って勉強する?」
「……そのほうがめんどくせー」
人の好さそうな少年が、ちょっとグレた少年の腕を引っ張りながらやって来た。
話の様子からすると、どうやら市内の中学生らしい。
「その人ね、旦那さんに浮気されて、しかもその浮気相手の人に───」
とても中学生のする話とは思えない内容のことを喋りながら歩いてきた人の好さそうな少年が、ふと立ち止まった。
「あれ……?いない……」
困惑した顔で、周囲を見渡している。
「天国いったんだよ、天国。……地獄かもしんねーけど」
「あんなに想いの強い人が自然に消えちゃうなんて、初めてだよ………」
「人じゃねーだろ」
軽い調子でグレた少年が言うと、
「死んだって、人は人だよ!」
人の好さそうな少年は、ひどく怒って友人を睨み付けた。
「何だよ……」
グレた少年がちょっと怯んで目を逸らすと───、
「おっ?」
逸らした先に、少年の大好物がこれみよがしに置かれている。
「らっき♪」
それは、先ほど直江の置いていった、青いパッケージの煙草だった。
「えええ!!やめなよっ、落ちてるのなんて!」
「だって封あいてねーもん」
少年は早速封を開けて、ポケットに入っていた100円ライターで灯をつけた。
思い切り息を吸い込んで、「げー、きちぃー」と煙を吐き出している。
「そんなの、身体に悪いだけなのに」
「誰かが、オレに早死にしろって置いてったんだろ。きっと」
「そんなわけ無いじゃん!………もしかしたら、神様からの誕生日プレゼントかもね」
「まさか。神様がそんな親切なことする訳ねーじゃん」
(………そうだよね)
人の好さそうな少年は、煙を吐き出す友人の横顔を見ながらふと思った。
この友人が、不健康な苦い煙ともに飲み込んでいるのは、きっともっと苦くて痛い何かなんだろう。彼が、生まれついた境遇について神様に恨みを言ったことも、一度や二度ではきかないはず。その結果、神様はこの友人の信頼を失ってしまったのだ。
「………じゃ、用も済んだし、戻って勉強しよっか」
「今日はもーいーだろ。ここまで歩いてきて疲れちまったし」
「一緒の高校行くんだろ!ほらっ!」
ふたりは来るときと同じように、腕を引っ張り引っ張られしながら、やがてやって来た方向へと消えていった。
翌日。
「譲、今日も図書館?」
「うん」
例の人の好さそうな少年が、ニュース番組を見ながら遅めの朝食をとっていると、
『23日午後8時頃、長野県松本市内の児童公園で、身元不明の女性の遺体が発見されました。松本県警によると、遺体は市民からの通報により───』
あ、と少年は声を上げた。
あの彼女がいた場所から、少しだけ西に行った所にある公園だ。
(きっと、あのひとの遺体だ……)
遺体が発見されたから成仏できたのかもしれない、と思いついた。
時間的にズレがあるような気はするが、細かいことはあまり気にしない。
(いいニュース、だよな?)
彼女は本願成就した訳だ。
きっと、受験生である自分達にとっても幸先のいいニュースに違いない。
昨日、一足早く十五歳になった友人にも早く教えてあげたいと、少年はコーヒーを一気に飲み干した。
後編 ≪≪
「こっちこっち!」
「めんどくせーなー。どーせオレにはみえねーのに」
「じゃあ、図書館行って勉強する?」
「……そのほうがめんどくせー」
人の好さそうな少年が、ちょっとグレた少年の腕を引っ張りながらやって来た。
話の様子からすると、どうやら市内の中学生らしい。
「その人ね、旦那さんに浮気されて、しかもその浮気相手の人に───」
とても中学生のする話とは思えない内容のことを喋りながら歩いてきた人の好さそうな少年が、ふと立ち止まった。
「あれ……?いない……」
困惑した顔で、周囲を見渡している。
「天国いったんだよ、天国。……地獄かもしんねーけど」
「あんなに想いの強い人が自然に消えちゃうなんて、初めてだよ………」
「人じゃねーだろ」
軽い調子でグレた少年が言うと、
「死んだって、人は人だよ!」
人の好さそうな少年は、ひどく怒って友人を睨み付けた。
「何だよ……」
グレた少年がちょっと怯んで目を逸らすと───、
「おっ?」
逸らした先に、少年の大好物がこれみよがしに置かれている。
「らっき♪」
それは、先ほど直江の置いていった、青いパッケージの煙草だった。
「えええ!!やめなよっ、落ちてるのなんて!」
「だって封あいてねーもん」
少年は早速封を開けて、ポケットに入っていた100円ライターで灯をつけた。
思い切り息を吸い込んで、「げー、きちぃー」と煙を吐き出している。
「そんなの、身体に悪いだけなのに」
「誰かが、オレに早死にしろって置いてったんだろ。きっと」
「そんなわけ無いじゃん!………もしかしたら、神様からの誕生日プレゼントかもね」
「まさか。神様がそんな親切なことする訳ねーじゃん」
(………そうだよね)
人の好さそうな少年は、煙を吐き出す友人の横顔を見ながらふと思った。
この友人が、不健康な苦い煙ともに飲み込んでいるのは、きっともっと苦くて痛い何かなんだろう。彼が、生まれついた境遇について神様に恨みを言ったことも、一度や二度ではきかないはず。その結果、神様はこの友人の信頼を失ってしまったのだ。
「………じゃ、用も済んだし、戻って勉強しよっか」
「今日はもーいーだろ。ここまで歩いてきて疲れちまったし」
「一緒の高校行くんだろ!ほらっ!」
ふたりは来るときと同じように、腕を引っ張り引っ張られしながら、やがてやって来た方向へと消えていった。
翌日。
「譲、今日も図書館?」
「うん」
例の人の好さそうな少年が、ニュース番組を見ながら遅めの朝食をとっていると、
『23日午後8時頃、長野県松本市内の児童公園で、身元不明の女性の遺体が発見されました。松本県警によると、遺体は市民からの通報により───』
あ、と少年は声を上げた。
あの彼女がいた場所から、少しだけ西に行った所にある公園だ。
(きっと、あのひとの遺体だ……)
遺体が発見されたから成仏できたのかもしれない、と思いついた。
時間的にズレがあるような気はするが、細かいことはあまり気にしない。
(いいニュース、だよな?)
彼女は本願成就した訳だ。
きっと、受験生である自分達にとっても幸先のいいニュースに違いない。
昨日、一足早く十五歳になった友人にも早く教えてあげたいと、少年はコーヒーを一気に飲み干した。
後編 ≪≪