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自分は力の限りを尽くしたのだといえる。
あの場所が自分の限界であったといえる。
ただあのひとの限界のほうが上回ったのだ。
実力に差があったのだ。
気力でもいい。意志の強さでもいい。何でもいい。
敗けたのだ、自分は。
それだけだ。
敗北を味わうことなど今までにいくらでもあった。
もう何度目かもわからない。
万回を超えたか。億回を超えたか。
癒えることのない、性質の悪い傷。
そのうちのひとつに過ぎない。

彼が勝者であり、自分が敗者であるということ。
それは誰のせいでもない。
彼は勝ってしまい、自分は敗けてしまった。
劣等感を抱けた頃が懐かしいとさえ思える。
自分が勝つ形がどこかにあると信じていた頃が。
克服など有り得なかったのだ。
自分に出来ることは、ただじっと痛みに耐えること。
絶対に劣らないと自負していた場所での敗北は、何もかもを奪い去った。

光が見えない。
視力を失ったあの時よりも闇い。
今、一歩でも前に踏み出せば、奈落の底へと転がり落ちてしまいそうだ。

日々、自問自答し、新たな痛みが生まれ死んでいく。
言葉が紡げず、吐き出す術もない。
そこには苦痛の屍骸が山となった。
腐臭が漂い、ますます吐き気を増進させる。
言葉を吐けない代わりに、精液でぶちまけるしかなかった。

 直江───……

彼が、手を差し伸べてくれている。
その手で傷口を塞ごうとしてくれている。
あの白い部屋でしてくれた様に。
とても疲れた瞳をして。

彼の望みは自分の望みだと今でも思う。
嘘じゃない。自分の動機は彼にしかない。
"願い"と"延命"。
それは崩壊への天秤だと彼は随分前から知っていたはずだ。
ひとつの道しか見えていない自分を前にして、心中はどんなものだっただろう。
またしても自分は彼を苦しめ、追い詰めていたに違いない。
きっと今だって、追い詰めている。
"苦痛を与える苦痛"もまた、耐えることで証となるのだろうか。

克つべき苦痛は、この先も道を往く限り、立ちはだかり続ける。
今の自分には想像もつかない凶器が、自分を傷つけようと待ち構えている。
自分はその全てに、克つことが出来るだろうか。

自問などしなくても答えはでているというのに。
自分の行くべき道は最短でも、事象の果てまでなのだから。
そこまでは、何があろうとも進まなくてはならないのだから。
克てるかどうかではなく、克ってみせなければならない。
何ものをも恐れるな。
暗闇にだって歩を進め、奈落からだって這い上がれ。
自ら肌を、切り刻んで往け。
この身体には、彼が聖なるものだと言ってくれた傷痕がある。
自分はそれを握りしめ、どんなに打ちのめされようとも再び顔をあげるだけなのだ。


≫≫後編
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───怨霊から存在を奪い取って、それを存在理由にして四百年も生きて………

 憎んでも憎みきれない男の声を聴きながら、時折その姿を移す砂嵐の画面の前で、草間清兵衛は心の片隅になにか引っかかるものを感じていた。

───ずっとずっと昔から、この世に残って迷える霊たちをあの世に送ることをなりわいとして………
───仏と結縁して強い法力を持っておられるとかで………

 引っかかっていたものの正体が見え始めて、思わず拳を握り締めた。

───おまえたちがオレの家だと思ってる
───この四国の地は、あの方にとっていつか"還る地"になる……


 突如として、視界が開けた。


 身体中に鼓動が響く。
 血が熱く滾る。
 目の前に大きな"時のうねり"のようなものを感じた。
 遥か以前、時が誕生し、そこから現在まで紡がれてきた悠久の時間。
 膨大な時の粒が流れる様がみえた。
 ひとりの人間が感じる刹那が粒ひとつを生み、ひとりの人間の一生は時の河となって流れていた。
 そしてその中で、上杉景虎という男の生は他の人々とは比べ物にならない位、大きく流れていた。
───自らこの世から旅立つことができるよう、手助けしたい

 夜叉共の400年もの永きに亘る、虐げられた者の嘆きを無常に砕く行為。
 自分にしてみれば到底許せることの出来ない行い。
 けれど……。
 そのことが一人の女性を救い、その女性の愛情で自分は生かされ、嶺次郎と出会い、今、ここに在る。
 なんだ。結局自分は上杉の行為の延長にいるのではないか。
 上杉景虎がいなければ、今の自分はなかったのではないか。
 嶺次郎も、赤鯨衆も、上杉の河から別れ出た、支流の更にまた支流。

(否、そんなはずはない)
 自分達は自分達の手で道を開いてきたはずだ。
 支流は延長などではない。
 支流は本流の干渉など受けない。
 支流は分かれた時点で本流となるのだ。
 自らの力で行く先を決められる。
 先に行くほど、更に複雑に流れを分けながら。
 人は自分で自分の行いの全てを見ることはないのかもしれない。
 景虎が自分の過去の行為に気付いていないように。
 元親公の行いが自分にとって彼の意図以上の意味を持ってしまったように。
 物事は複雑に入り組んでいるのだ。
 己という河がどこから流れ出でたのか。
 己という河から何が流れ出でたのか。
 人にはそれを知る術はないのかもしれない。
 ただ草間に解ることはひとつ。
 夜叉共が鬼と蔑まれても、歴史の表舞台に出ることがなくとも、ただ地道に己の流れを刻んできたということだ。
 最強の敵にも心の葛藤にも屈することなく、道を切り開いてきたということだ。
 その種を蒔くような行為が今鮮やかに芽吹いている。
 どんな徒労も未来に繋がっているのかもしれない。
 今あるものや未来のものだけでなく、過去の情熱やもう二度と取り戻せないものも、決して無駄ではなかったのかもしれない。
 己の眼で結果をみることはなくとも、嘆く必要はないのかもしれない。

 そうだとして。
 これからいったい自分は何を為すべきか?
 時が凝ることなく流れる意味とは何なのか。
 繋がり続ける意味とはなんなのか。
 その流れによって運ばれるべきものがあるからではないのか。
 受け継がれていくものがあるからではないのか。
 誰かが信じ貫いてきたものの舳先に立つ自分。
 出来ることなら、信じるものをもう一度取り戻したい。それを貫きたい。
 そうすればいつか自分が信じたものの果てに誰かを立たせることが出来るかもしれない。
 そこにこそ自分を生かす道があるのではないのか
 それでこそ元親公が自分を救ってくれたことに報いることが出来るのではないだろうか。
 真に自分が救われる時ではないのか。
 だがいま、心を深く浚っても、激しく燃えるものがない。
 どうしても貫きたいものはもうこの胸にはない。
 いま、心に見えるものは───

 問うべきは嶺次郎でも他の何者でもなく、自分の心だったようだ。
 草間の眼には失われたはずの輝きが戻り始めていた。


 それなりの距離を車3台で移動する事となった。
 同行する隊士は計9名。その中に含まれていた直江と潮をを無理やり後方の車に押し込んで、高耶は先頭車両の助手席に陣取った。
 直江が同乗していれば変に気を使うし、潮がいれば何かとうるさい。
 目論見通り、高耶はゆったりと過ごすことができた。
「隊長、そろそろ燃料が危ないですき……」
「ああ、ならこの先にスタンドがあったはずだ」
 途中、燃料補給のために休憩を取った。
 田舎道のセルフ給油所は他に客も無く、どこかのんびりとした雰囲気だ。
 ずっと座り通しだった隊士達は全員車から降りて、それぞれ思い思いの行動を取っている。
 高耶はそんな様子を車に寄りかかりながら眺めていた。
 そこへ相変わらず黒い服に身を包んだ直江がやってくる。
「疲れたでしょう」
「……逆にゆっくり眠れていい」
 大人しく別車に乗り込んだと思ったのに、隙あらばと傍に来る直江を、高耶もなんだかんだで許してしまう。
 畑の上を通ってきた風が、ふたりの間を爽やかに吹き抜けた。
 しばらくの間、並んでつかの間の日向ぼっこを楽しむ。
「最近はセルフばっかだな」
 高耶の視線の先にはガソリンを入れる隊士がいる。
 どうやら、トリガーを戻し損ねてタンクから溢れさせてしまったらしい。
 潮が隣でもったいない!と隊士を小突きまわしている。
「プロの技を伝授してあげたらどうですか」
 高耶が松本にいた頃、ガソリンスタンドでアルバイトをしていたことを直江は知っている。
「やめろ。どこで誰が聞いてるかわからない。最近ただでさえ変な噂があるのに」
「噂?」
「オレの美術の成績だとか、得意料理が肉じゃがだとかな」
 じろり、と睨み付けるがそんなことは意にも介さず片眉を上げて応える。
「誰でしょうねえ、そんな流言を」
 あのな、と説教を始めようとしたところで、潮が割り込んできた。
「なになに、何の話よ」
 おいしい情報の匂いを嗅ぎ取ってか、嬉々として問いかける潮に直江は間髪入れずに応えた。
「隊長は猫を”にゃんこ”と呼ぶそうだ」
「!ってめぇ……っ」
「まじ!?仰木が!?にゃ、にゃんこ!?お前、かわいいなあっ!」
 直江は無表情を装ってはいるが、満足気なのが高耶にはわかる。
 思わずため息をついた。
 この男のこういう行動は、もちろん高耶と自分の関係を他人に誇示したいという気持ちがあるのだろうが、それ以外にも噂を聞いた高耶と他の隊士とのコミュニケーションが円滑になれば、という意図があるのだと思う。
 高耶は普通にしているつもりでも、一般隊士からみるとなんだか近寄り難いらしいのだ。
 慕われこそすれ打ち解けるといったことはない。
 どうも自分には協調性というものが欠けているらしい。
 高耶はそれでいいと思っている。
 毒のこともあるし必要以上に話をしたくないのである。
 けれど、心の奥底にある孤独を直江は嗅ぎ付けてしまうのかもしれない。
 それは決して周りの人間と笑い合っていれば解決されるような類のものではないのだけれど。
 自らの孤立は気にも留めないくせに、しかもいざ高耶が周りと馴れ合えば妬くくせに、何故かそういう妙なところに気を利かせる男なのだ。
 だからといって、何年も昔のことを持ち出されるのはたまらない。変に関係を勘繰られる可能性だってある。
 せめて直江の赤鯨衆入隊以降にあった話でないと、突っ込まれた時に誤魔化しようがないから、
「するんならもう少し最近の話にしろ」
 と、潮が大声で高耶の猫好きを吹聴しているのを横目に見ながら小声で窘めてみた。
 すると直江は高耶の耳元に顔を寄せてきた。
「例えばあなたは××××が好き、とか?」
「~~~~っっ!!」
 いつかの夜に直江の巧みな誘導で高耶がせがんだ行為を、白昼の下で囁かれて高耶は思わず赤面した。
 前言撤回だ。
 この男は何も考えていない。単に高耶を困らせて喜んでいるだけだ。
 それとも同じ車に乗せてもらえないことへの復讐か。まったく子供染みている。
「いいかげんにしろ!」
 本気で怒ると直江は笑みを浮かべながらさっさと自分の車に戻ってしまった。
 取り残された高耶は赤い顔で空を仰ぐ。
 今日の日差しは一段と強い。すっかり春の陽気だ。
 土とガソリンの匂いを含んだ大気が涼しくて心地がいい。
 なかなか引かない頬の熱を晒しながら高耶は引き続き、つかの間の日向ぼっこを楽しんだ。


 世間では春の連休が明けて間もない。
 高速道路は異様なほどに空いていた。
 セフィーロを走らせる直江は、松本での事後処理の為に徹夜したにもかかわらず、気が張っているせいか眠くもならない。
 ろくに休憩も取らずに走り通しで実家まで戻ってきた。

「あらあら、土手で転がりでもしたんですか」
 車の音を聞きつけて玄関先まで出て来た母親は、まるで小学生の子どもを迎える態度だ。
「そんなことはしませんよ」
 苦笑いの直江に対してあくまでも本気だったらしい母親は、お風呂の準備をしましょうね、と慌しく奥へ消えていった。
 靴を脱ぎネクタイを緩め茶の間へ行くと、おおきなちゃぶ台には平日の昼間だというのに照弘がいた。
 お茶を片手に新聞を読んでいる。
「兄さん」
「おう、帰ったか。……また派手に汚したな」
「えぇ、まあ」
「予定より日程が押しただろう。長野の女性はそんなによかったか」
「兄さん……」
 照広はパッと掌をみせた。
「いや、いい。詳しくは聞かないさ」
 これから親父さんと一緒に東京なんだ、と伸びをしながら話す長兄は、直江の放蕩は全て女性が原因だと思っているフシがある。
 土手で転がって遊んだと思われるよりはマシなのか。どうなのか。
「お風呂の準備、出来ましたよ」
 早足でやって来た母親は、直江が脱いで手にしていた上着を奪い取った。
「あらあら、クリーニングに出さなくっちゃいけませんねぇ。
ほら、義明。早く下も脱いでいらっしゃい」
「お母さん、それくらいは義明も自分で出来ますよ」
「そうそう、義明。お腹空いてないのかしら?お風呂の前に何か食べますか?」
 突っ込みを入れる照弘と、それを完全に無視する母親の会話を
いつも通り聞き流しながら、直江はぼんやりと考えた。
(夢ではないんだな)
 目の前には日常の風景が広がっている。
 数日前、この家を出た時と同じものだ。
 けれど、直江の心境は全く違っていた。
 全てが鮮明に焼きついている。

 下から睨み付けてくる瞳。
 柔らかさの残る輪郭
 成長しきっていない体躯
 精一杯凄味を利かせた若い声。

 景虎との再会の形は、それこそ数え切れないほど想像したが、どの想像とも違っていた。
 第一、自分よりひとまわりも幼い姿で現れるとは思っていなかった。
 前生でも自分のほうが上ではあったが、年齢差は殆ど無かった。
 いや、別に想像と違って驚いているから、こんなに心もちが違うという訳ではない。
 彼が生きていたのだ。
 彼は生きていた。
 二十年以上もの間、この家で、この部屋で、常に忘れることのなかった不安や焦燥や恐怖が今は無い。
 彼とのほんのわずかな時間が全てを埋めてくれた。
───オレは景虎じゃねーよ
(それとも俺は、求めるあまりにあの人を創りあげてしまったのか)
 《調伏》をして見せたのに?まさか、夜叉衆以外の新たなる結縁者?
 そんな馬鹿な。そうではない。
 彼が景虎だと思ったから、空白が癒されたのではない。
 癒されたからこそ、彼が景虎なのだ。
 彼の名前や記憶の問題ではない。人格の問題ですらないかもしれない。
 自分の求め焦がれる魂。
 彼、仰木高耶は間違いなくそういう存在だ。
(だからこそあの人なのだ)
「義明。帰ってたのか」
 部屋へ入ってきた父親の声で思考を中断した。
「えぇ、先程戻りました」
─────
 一瞬、父親は直江を驚いたように見つめた。
「……何か良いことでもあったか」
 直江は思わず瞠目した。
 橘家の家主は昔から異様に鋭い。
 直江のわずかな変化を読み取ったらしい。
「………」
 すぐには返事が出来なかった。
(良いこと、なのか)
 記憶を封じるほどに傷ついた景虎と、その傷をつけた自分の再会。
 それと同時に景虎は自分を痛めつける人間でもある。
(いや、繰り返しはしない)
 過去は過去として考えるのだ。未来はまだ、決まってはいない。
 この再会を良いいものにしてみせる。
「ええ」
 力強く頷く直江を、父親はしばらく眺めてから、
「そうか、よかったな」
 とだけ言った。
「じゃあ、行ってくる」
「……気をつけて」
 玄関へ向かう父親の後を追って、母親も見送りに向かう。
 父親と末弟の会話を感慨深げに聞いていた照弘は、何も言わずに直江の肩をポンと叩いて部屋を出て行った。

 窓の外には楓の葉が瑞々しく茂っている。
 もうすぐ、恵みの雨の季節がやってくる。
 季節が動き始めていた。


  □ □ □


 真夜中の長野県立城北高校。
 その小さな灯りすら無い校舎内で、不気味に動く影があった。
「よいせっと」
 学校の机というのはどうしてこれほどまでに運びにくいのか。
 千秋修平こと安田長秀は思った。
「やっぱ転校生は一番後ろでしょ」
 明日から座る机と椅子。
 もちろんこの学校の教師も生徒も自分を転校生とは認識しない。
 1年からずっと一緒のクラスメイトだ。
(まっさか俺様がコーコーセーをやるハメになるとはな)
 それもこれも、記憶がないらしい景虎のせいだ。
 成田譲の姿だけは、家を張り込んで一応確認しておいたが、景虎の今の姿はまだ確認していない。
 思い浮かぶのは30年前の景虎の容姿だ。
 あの、やることなすこと全てが裏目に出た泥沼の時代。
 とにかくただ苦しくて、救いも何もなかった。
 自分を永遠に走り続けるマラソンランナーのように錯覚した。
 性にあわない。もうこりごりだ。そう思うのに。
 何故か自然と笑みが浮かんでしまう。
(何を期待してるんだか)
 別に景虎との再会を望んでいたわけでは無い。直江じゃあるまいし。
 景虎はもう浄化した。それで当然だと思っていた。
 30年前のあの状況はあまりにも悲惨すぎた。
 ただ。
 景虎は、もう無理だろう、というところでも必ず持ち直してくる人間だったから。
 心のどこかで、まだ信じていたのかもしれない。
 まるで不死鳥のように蘇る景虎の姿をもう一度眼に出来るかもしれないと。
 そういう時、自分は純粋に景虎という人間の強さに感動もするし、
そういう人間が自分達を率いてることが頼もしい、と思ったりもする。
 それでも、かなわないとは思わないけど。生意気だと思うのだけど。
───やめたやめた)
 自分で自分に言い訳をしても不毛だ。
 ヤツがどうでるか。単純に楽しみなんだ、俺は。

 窓の外には、ひどく明るい月がみえた。
 これからまた、新たな戦いが始まると言っていい。
 その戦いもまた泥沼なのか。その果てに何らかの勝利を掴めるのか。
 千秋は、眼鏡の奥から未来を見据えた。


 午後9時。
 資料に眼を通していた高耶はアジトの壁に時計を見やって、知らず知らずため息を漏らした。今日何度目だろうか。
 やらなければいけないことはたくさんあるのに、気が急くばかりで一向に量が減らない。
 とりあえず、電話を一本掛けようと携帯電話を手に取ったところで、ノックの音が部屋に響いた。
「中川です」
「あいてる」
 部屋に入ってきた中川は小さな木の箱を手にしていた。
「これ、直りましたから」
「……悪いな」
 この前の戦闘で、また霊枷を壊してしまったのだ。
 大切そうに腕にはめる姿を、中川はじっと見つめる。
 それに気付いて、高耶は口を開いた。
「何だ」
「……橘さんに会いたいときは、私が何か理由を作ってここへ呼んでもいいがですよ?」
 唐突な申し出に、高耶は眼を丸くした。
 直江を赤鯨衆に置くために、わざと突き放したことを見抜いた中川だ。
 高耶がもどかしい思いをしているとみたんだろう。
 赤鯨衆の中では中川にしかできない気の遣い方だな、と高耶は思った。
「そんな甘ったるい関係じゃない」
「ですが」
「いいんだ」
 にべもない高耶に、それでも中川は諦めなかった。
「じゃあ橘さんにも何か贈りますか?」
 高耶は笑って答える。
「誕生日じゃあるまいし。プレゼントなんて柄じゃない」
 その言葉で、中川の頭上に疑問符が浮かんだ。
「誕生日、ですか」
 そういえば、個人で誕生日を祝う習慣は古くない。
 少なくとも昭和に入ってからだ。もちろん中川の生きた時代には無かった。
「現代人は自分が生まれた日を祝うんだ」
「ああ、聞いた事があります。面白か祭りですね。仰木さんはいつなんですか」
「……7月23日だ」
「じゃあ、その日になったら何かお祝いしないと」
 そんなのいい、と言おうとしたが、中川はおやすみを言ってさっさと出て行ってしまった。
 高耶は再びため息をつく。
 誕生日。言わば換生という罪が確定した日。めでたいものではない。
 が、ずいぶん昔に、"新たに生まれ直した日”だと言われたことを思い出した。
 妹や母親や父親や、懐かしい人たちのことを思い返していて、ふと、あの男の誕生日はいつだったろうかと思った。
(確か、5月3日……)
 自分の誕生日を祝ってもらったことはあったが、あの男の誕生日を一緒に過ごしたことはない。
 別に祝う必要なんてないと思っている。
 いつだって感謝しているのだ、自分は。
 あの男という存在を。その全てを。
 だけど、男の魂と出会うべくして出会ったかのような、橘義明という命。
 数限り無い命の中からたったひとつ結びついたというその奇跡のような偶然を、一日だけ特別に祝うというのも悪くはないかもしれない。
 愛しい魂が新たに生を受けた日。
 その日が来たら伝えてみよう。
 一言、
「誕生日、おめでとう」と。


dearest body
..........in usual night


  □ □ □


 男の胸に頭をあずけて、高耶は男の身体の傷痕ひとつひとつ、ここは?ここは?と指差していった。
 男はその傷の所以を答える。
 高耶は、自分のための傷には満足そうに笑み、知らない傷には歯を立てた。
 自分の傷となるように。
 そのうちに、高耶の指が背中を辿り始めたので、男は笑った。
 見えないところは答えようがない、と。
 そして、いつもの真摯な眼で付け加えた。
 だけど、どの傷もあなたと供にあろうとしてついた傷であり、
 全てあなたのものなのだ、と。
 それを聞いても高耶は納得せず、背中の傷全てに、自分が所以を決めると言い出した。
 高耶は頑固だ。
 男はやりたいようにさせることにしたらしい。
 短い夜は、いつもそんな風に過ぎていく……。
 背中の傷の多さに悪戦苦闘しながら、高耶は思い出した。
 そういえば今日、自分はこの男に伝えることがあったんだ。
 これを云えば、男は微笑を浮かべて、礼を言ってくるだろう。
 そうしたら、もう一度ひとつになって、この背中の傷痕全て、自分の爪で上書きしてしまおう。
「直江」
 名を呼ぶと、男は顔をこちらへ向けた。
 高耶はゆっくりと告げる。
「誕生日、おめでとう」


dearest body
..........in birth night
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