橘が血を吐いた。
あまりにも顔色が悪いから、無理やり医務室へ連れ込んだ直後のことだった。
吐血してそのまま床にうずくまるように崩れ落ちた。
意識が朦朧としているようだったから、大きな身体を何とかベッドに横たえてやると、暫くして目を覚ましたのだが、全く事情を話したがらない。
延々しつこく問い詰めてやっと、ここ数日調子が悪かったことを白状した。
以前に処方した薬もちゃんと服用してないことがわかった。
橘を初めて診たのは、高耶や嶺次郎がこの男を連れて足摺に戻った直後のことだった。
重要な捕虜にはまず身体検査を行う。
人間いざとなれば体内に爆薬を隠し持つことだって厭わないからだ。
危険が最小限に抑えられるよう人払いをした後で服を脱がせてみて、正直驚いた。
心臓の真上に弾痕があって、命を取り留めた人間などいるものなのだろうか、と。
そればかりでなく、強引な逃亡劇を物語る出来たばかりの生々しい傷から、何かいわくのありそうな場所にあるものまで、刻まれた傷痕は数限りなかった。
草間や嘉田や赤鯨衆の男たちも皆、生傷が絶えることはない。
《闇戦国》で生きる、とはそういうことだ。
橘はそれらを隠すようにすぐ服を着てしまったが、この男の歩んできた道のりを見た想いがした。
一通り診終えた後で何か持病はないかと聞くと、点滴を打ちたいと言ってきた。
胃に潰瘍があり、食事が摂れそうにないから栄養剤を投与して欲しいという。
ではまず検査をしてから治療法を決めようと言ったのに、検査はいいの一点張りで血の一滴すら採らせようとしない。
不可解ではあったが何かを企てている感じではなかったので、結局橘の言う通りに栄養剤を点滴し、潰瘍の薬を渡しておいたのだ。
が、それも飲んでいなかったという。
「どこに行く気ですか!」
橘は青白い顔で無理やり起き上がり、部屋を出ていこうとする。
「寝ている訳にはいかない」
今日は重要な砦攻めがあることは、中川も知っている。けれど戦闘に参加するなど、とてもじゃないけど認められない。
「そんな身体では絶対に無理です。戦闘中にまた血でも吐いたらどうするんですか。敵を喜ばせるつもりですか」
中川の嫌味にも、橘は表情ひとつ変えない。
「これくらいなんともない。いいから行かせてくれ」
人の話を全く聞かない態度に、いい加減切れそうになって言った。
「ほがなとこまで仰木さんに似ないでください!上杉には病身をおして戦しろっちゅう家訓でもあるがですか!?」
中川の剣幕に少し驚いた橘は、やっと話をする気になったらしい。
「俺には大切な約束がある。まずは霊波塔を奪還しなければ何も始まらない。どうしても行かなければならないんだ」
頼む、とまで言われて、中川も困惑した。
「……わかりました。じゃあ今は注射だけにします。ただし、帰ってきたらちゃんと点滴を受けてください」
必ず、と橘は言った。
あまり信用はしていなかったが、夜になって約束通り医務室へとやってきたから、意外に律儀な男だ、と思った。
「しばらく、横になっていてください。眠っていればすぐですよ」
点滴の準備をしながらそう言ったのに、橘は投薬が始まって一時間経っても目を瞑らなかった。
「眠れないんですか?」
「……ああ」
その短い返事からは明らかに焦燥感のようなものが読み取れた。
「じゃあ、軽い鎮静剤を打ちますから。きっとすぐ眠れます」
最初からそうしてあげればよかったのだ。
この様子だと普段から眠れていないのだろう。
食事もせず、睡眠も取らずでは体力が持たないのは当たり前だ。
やっと眠りについた橘の寝顔を眺めながら、現代霊の隊士が役者の誰某に似ていると言っていた事を思い出した。もちろん中川は全く知らない名前だ。
そのままぼーっとしていると、前触れ無く医務室の引き戸が開いた。
「仰木さん!?」
入ってきたのは、仰木高耶その人だった。
今朝、橘が倒れて一番最初に連絡したのは紛れも無く自分だが、まさか宿毛までやって来るとは思っていなかった。
一報を入れた時も、橘が言うことを聞かなくて困ったと愚痴の電話をした時も、高耶の反応はあっさりしたものだったし、数時間前には一晩医務室で休ませるつもりだから大丈夫だと言ってあったはずなのに。
形振り構わないような行動とは裏腹に、表情はずいぶんと冷静に見えた。
「容態はどうだ?」
「今は眠っています」
「砦攻めが難航したと聞いてる。怪我はないのか?」
「ええ、大丈夫です。橘さんは大活躍だったみたいですよ」
「そうか……」
中川は答えながらも、つい上の空になる。
あの戦馬鹿の高耶が戦をほったらかして駆けつけるなど尋常ではない。
ここまでされるとどうしても二人の関係性を疑ってしまう。
単なる主従では片付けられない強い結びつきがある。
中川は知りたかった。
高耶にとって橘はどういう存在なのだろう。
橘にとって高耶はどういう存在なのだろう。
高耶の表情から、関係性を読み取ることは出来ない……と思っていると、
「潰瘍……?」
倒れた原因を聞いて、初めて高耶の表情が崩れた。
「ええ。治療中だったんです。………大丈夫ですか?」
急に顔を青くした高耶に中川が問いかけても、高耶は返事をしない。
橘の顔を見つめたまま、黙りこくってしまった。
一度、横たわる橘の頬に触れようとして、直前で手を止めた。
まるで触れるのが怖いとでもいうように。
もしかして。
中川は行き着いた答えに自分で鼓動を早くして、悟られないように高耶に背を向けた。
いやもしかしなくとも、橘の身体の異常は高耶の毒のせいだろうか。
橘がいくら言っても血液検査を拒んだ理由は、それが発覚するのを恐れたせいだろうか。
自分が今まで結びつけて考えなかったことが不思議なくらい、自然な筋道だった。
脳裏に、あの高耶の精液を口にして死んだ憑巫の姿が思い浮かんだ。
高耶の毒消しのヒントにならないかと、遺体を家族の元へ送り帰す前に解剖させてもらったのだ。
食道も胃も、焼け爛れたようになっていたあの憑巫……。
高耶は足摺から戻った後、自分に素肌を見せたがらなかった。そんなこと初めてだったからよく覚えている。
まさか……。
お互いのことを語るふたりの表情。銀色の霊枷。
証拠とも呼べるような確固たる事実がずらりと揃っている。
けれどその事実を結び付けて考えることを脳が拒んでいるかのようにうまく組み立てられない。
鼓動を早鐘のように打ち続ける心臓を、更に苛めるような声が後ろから聞こえた。
「た……かやさ……」
ぎょっとした。
振り返ると橘の眼が開いている。
「まだ鎮痛剤がきいちょるはずですが……」
そう言った声は掠れてしまった。
まるで何かを追うように宙を彷徨う手を、高耶は掴んで強く握り締めた。
苦しげに橘の見つめていたかと思うと、耳元に口を寄せ何事かを囁いている。
すると、橘の強張った身体から力が抜け、安心しきったように眼を閉じた。
高耶は掴んだ手を布団の中にしまうと、一度だけ橘の髪に触れた。
その一連の動作を魅入られたように眺めていた中川は、心の中で何かがふっきれるのを感じた。
高耶がくるりと踵を返す。
「眼を覚ましたら、しばらくの間謹慎だと伝えろ」
「仰木さん」
「自己管理もままならない奴が戦闘に出れば、周りにまで危険が及ぶ。ここから出るのも駄目だ。小源太にはオレがいっておく」
頼んだぞ、と言うと高耶はさっさと出て行ってしまった。
結局、橘と話すらせずに行ってしまった。何をしにきたんだか。部屋に10分も居なかったのではないか。
高耶は蠱毒薬を飲んでいたようだったが、一応空気を入れ替えようと、窓を開けた。
夜の冷たい空気がカーテンを揺らす。
(橘さんの治療には、蠱毒薬を利用してみよう。効果があるかもしれない)
中川はもう、ふたりの関係について細かく考えることを放棄してしまっていた。
ただふたりは誰よりもお互いを想い合っている。今はそのことが分かっていればいい。
いずれ、橘の正体も含めて分かる日が来る。中川にはそんな予感があった。
星の瞬く夜空を仰ぎ見て、今日は別れて暮らす男女が年に一度逢引する日だと聞いたことを思い出す。
どんなに限られた時間といえども、会えれば嬉しいものなのだろうか。
次に会うときは、せめて語らえるくらいの時間は作ってあげたいと願いつつ、高耶と橘という大の男ふたりを、天の上の光り輝く河のほとりで一年振りの再会を楽しんでいるであろう恋人達と重ねあわせた自分の想像がおかしくて、中川はひとりで笑った。
≫≫前編
あまりにも顔色が悪いから、無理やり医務室へ連れ込んだ直後のことだった。
吐血してそのまま床にうずくまるように崩れ落ちた。
意識が朦朧としているようだったから、大きな身体を何とかベッドに横たえてやると、暫くして目を覚ましたのだが、全く事情を話したがらない。
延々しつこく問い詰めてやっと、ここ数日調子が悪かったことを白状した。
以前に処方した薬もちゃんと服用してないことがわかった。
橘を初めて診たのは、高耶や嶺次郎がこの男を連れて足摺に戻った直後のことだった。
重要な捕虜にはまず身体検査を行う。
人間いざとなれば体内に爆薬を隠し持つことだって厭わないからだ。
危険が最小限に抑えられるよう人払いをした後で服を脱がせてみて、正直驚いた。
心臓の真上に弾痕があって、命を取り留めた人間などいるものなのだろうか、と。
そればかりでなく、強引な逃亡劇を物語る出来たばかりの生々しい傷から、何かいわくのありそうな場所にあるものまで、刻まれた傷痕は数限りなかった。
草間や嘉田や赤鯨衆の男たちも皆、生傷が絶えることはない。
《闇戦国》で生きる、とはそういうことだ。
橘はそれらを隠すようにすぐ服を着てしまったが、この男の歩んできた道のりを見た想いがした。
一通り診終えた後で何か持病はないかと聞くと、点滴を打ちたいと言ってきた。
胃に潰瘍があり、食事が摂れそうにないから栄養剤を投与して欲しいという。
ではまず検査をしてから治療法を決めようと言ったのに、検査はいいの一点張りで血の一滴すら採らせようとしない。
不可解ではあったが何かを企てている感じではなかったので、結局橘の言う通りに栄養剤を点滴し、潰瘍の薬を渡しておいたのだ。
が、それも飲んでいなかったという。
「どこに行く気ですか!」
橘は青白い顔で無理やり起き上がり、部屋を出ていこうとする。
「寝ている訳にはいかない」
今日は重要な砦攻めがあることは、中川も知っている。けれど戦闘に参加するなど、とてもじゃないけど認められない。
「そんな身体では絶対に無理です。戦闘中にまた血でも吐いたらどうするんですか。敵を喜ばせるつもりですか」
中川の嫌味にも、橘は表情ひとつ変えない。
「これくらいなんともない。いいから行かせてくれ」
人の話を全く聞かない態度に、いい加減切れそうになって言った。
「ほがなとこまで仰木さんに似ないでください!上杉には病身をおして戦しろっちゅう家訓でもあるがですか!?」
中川の剣幕に少し驚いた橘は、やっと話をする気になったらしい。
「俺には大切な約束がある。まずは霊波塔を奪還しなければ何も始まらない。どうしても行かなければならないんだ」
頼む、とまで言われて、中川も困惑した。
「……わかりました。じゃあ今は注射だけにします。ただし、帰ってきたらちゃんと点滴を受けてください」
必ず、と橘は言った。
あまり信用はしていなかったが、夜になって約束通り医務室へとやってきたから、意外に律儀な男だ、と思った。
「しばらく、横になっていてください。眠っていればすぐですよ」
点滴の準備をしながらそう言ったのに、橘は投薬が始まって一時間経っても目を瞑らなかった。
「眠れないんですか?」
「……ああ」
その短い返事からは明らかに焦燥感のようなものが読み取れた。
「じゃあ、軽い鎮静剤を打ちますから。きっとすぐ眠れます」
最初からそうしてあげればよかったのだ。
この様子だと普段から眠れていないのだろう。
食事もせず、睡眠も取らずでは体力が持たないのは当たり前だ。
やっと眠りについた橘の寝顔を眺めながら、現代霊の隊士が役者の誰某に似ていると言っていた事を思い出した。もちろん中川は全く知らない名前だ。
そのままぼーっとしていると、前触れ無く医務室の引き戸が開いた。
「仰木さん!?」
入ってきたのは、仰木高耶その人だった。
今朝、橘が倒れて一番最初に連絡したのは紛れも無く自分だが、まさか宿毛までやって来るとは思っていなかった。
一報を入れた時も、橘が言うことを聞かなくて困ったと愚痴の電話をした時も、高耶の反応はあっさりしたものだったし、数時間前には一晩医務室で休ませるつもりだから大丈夫だと言ってあったはずなのに。
形振り構わないような行動とは裏腹に、表情はずいぶんと冷静に見えた。
「容態はどうだ?」
「今は眠っています」
「砦攻めが難航したと聞いてる。怪我はないのか?」
「ええ、大丈夫です。橘さんは大活躍だったみたいですよ」
「そうか……」
中川は答えながらも、つい上の空になる。
あの戦馬鹿の高耶が戦をほったらかして駆けつけるなど尋常ではない。
ここまでされるとどうしても二人の関係性を疑ってしまう。
単なる主従では片付けられない強い結びつきがある。
中川は知りたかった。
高耶にとって橘はどういう存在なのだろう。
橘にとって高耶はどういう存在なのだろう。
高耶の表情から、関係性を読み取ることは出来ない……と思っていると、
「潰瘍……?」
倒れた原因を聞いて、初めて高耶の表情が崩れた。
「ええ。治療中だったんです。………大丈夫ですか?」
急に顔を青くした高耶に中川が問いかけても、高耶は返事をしない。
橘の顔を見つめたまま、黙りこくってしまった。
一度、横たわる橘の頬に触れようとして、直前で手を止めた。
まるで触れるのが怖いとでもいうように。
もしかして。
中川は行き着いた答えに自分で鼓動を早くして、悟られないように高耶に背を向けた。
いやもしかしなくとも、橘の身体の異常は高耶の毒のせいだろうか。
橘がいくら言っても血液検査を拒んだ理由は、それが発覚するのを恐れたせいだろうか。
自分が今まで結びつけて考えなかったことが不思議なくらい、自然な筋道だった。
脳裏に、あの高耶の精液を口にして死んだ憑巫の姿が思い浮かんだ。
高耶の毒消しのヒントにならないかと、遺体を家族の元へ送り帰す前に解剖させてもらったのだ。
食道も胃も、焼け爛れたようになっていたあの憑巫……。
高耶は足摺から戻った後、自分に素肌を見せたがらなかった。そんなこと初めてだったからよく覚えている。
まさか……。
お互いのことを語るふたりの表情。銀色の霊枷。
証拠とも呼べるような確固たる事実がずらりと揃っている。
けれどその事実を結び付けて考えることを脳が拒んでいるかのようにうまく組み立てられない。
鼓動を早鐘のように打ち続ける心臓を、更に苛めるような声が後ろから聞こえた。
「た……かやさ……」
ぎょっとした。
振り返ると橘の眼が開いている。
「まだ鎮痛剤がきいちょるはずですが……」
そう言った声は掠れてしまった。
まるで何かを追うように宙を彷徨う手を、高耶は掴んで強く握り締めた。
苦しげに橘の見つめていたかと思うと、耳元に口を寄せ何事かを囁いている。
すると、橘の強張った身体から力が抜け、安心しきったように眼を閉じた。
高耶は掴んだ手を布団の中にしまうと、一度だけ橘の髪に触れた。
その一連の動作を魅入られたように眺めていた中川は、心の中で何かがふっきれるのを感じた。
高耶がくるりと踵を返す。
「眼を覚ましたら、しばらくの間謹慎だと伝えろ」
「仰木さん」
「自己管理もままならない奴が戦闘に出れば、周りにまで危険が及ぶ。ここから出るのも駄目だ。小源太にはオレがいっておく」
頼んだぞ、と言うと高耶はさっさと出て行ってしまった。
結局、橘と話すらせずに行ってしまった。何をしにきたんだか。部屋に10分も居なかったのではないか。
高耶は蠱毒薬を飲んでいたようだったが、一応空気を入れ替えようと、窓を開けた。
夜の冷たい空気がカーテンを揺らす。
(橘さんの治療には、蠱毒薬を利用してみよう。効果があるかもしれない)
中川はもう、ふたりの関係について細かく考えることを放棄してしまっていた。
ただふたりは誰よりもお互いを想い合っている。今はそのことが分かっていればいい。
いずれ、橘の正体も含めて分かる日が来る。中川にはそんな予感があった。
星の瞬く夜空を仰ぎ見て、今日は別れて暮らす男女が年に一度逢引する日だと聞いたことを思い出す。
どんなに限られた時間といえども、会えれば嬉しいものなのだろうか。
次に会うときは、せめて語らえるくらいの時間は作ってあげたいと願いつつ、高耶と橘という大の男ふたりを、天の上の光り輝く河のほとりで一年振りの再会を楽しんでいるであろう恋人達と重ねあわせた自分の想像がおかしくて、中川はひとりで笑った。
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