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「ハロウィン?」
「ええ。武藤たちが張り切っていましたよ。かぼちゃをくりぬくとか」
 直江が、Yシャツのボタンをとめながら言った。
「お盆のときはなんにもしなかったくせにな」
 いや、迎えだ送りだとか騒いで、毎日のように宴会が開かれていたっけ。
「仮装もするとか」
「………冗談だろ」
 大の男達がお化けの格好をして練り歩くというのだろうか。
 土佐訛りで「とりっく・おあ・とりーと」とか言って、飴玉をもらうのだろうか。
 高耶は思わず吹き出した。
「楽しそうですね」
「だって……。あいつらってほんとやることがガキっていうか、お祭り騒ぎが根っから好きっていうか」
「呑む口実が欲しいんですよ」
「それもあるな」
 ひとしきり笑った後で、静かに微笑している直江に高耶は眉を上げた。
「怒んねーの?」
 今日の高耶は随分砕けた口調だ。
「なにを」
「いつもだったら、"他の人間の話を自分の前でするな"とか言うだろ」
 そう。そう言ってしつこいくらいなのに。
「心を入れ替えたんですよ」
「へえ?」
「私は彼らの知らないあなたを知っているから」
 全裸のまま、うつ伏せで横たわっていた高耶は、挑発するように仰向けになった。
「どんな?」
 そう言って笑ったまま腕を伸ばし、とめたばかりの直江のシャツのボタンをもう一度ひとつずつ外していく。
「そうですね……」
 直江は高耶を咎めることはしないで、汗で湿った漆黒の髪に手をやった。
 そのまま顔を耳元に寄せて、何事かを囁く。
─────……………。
 高耶は小さく笑った。
 それが、直江の言葉のせいなのか、ただ単に吐息がくすぐったかったのかはわからない。
 それでも満足したらしい直江は立ち上がった。
「もう行きます」
 腕時計を見ながら言う。
 高耶の外したボタンをまたとめなおしながら、
「あなたも早く戻らないと。また大騒ぎになりますよ」
と忠告までしてくる。
 なんだか今日は随分聞き分けのいい直江だ。
 いつもの黒い上着を着込んだ直江は、何に違和感を覚えたのか右のポケットをまさぐり始めた。
 出てきたのはピンクの紙に包まれた飴玉だ。
 直江と飴玉。妙な取り合わせに思える。
 直江はそのピンクの包みを高耶に向かって差し出してきた。
「そういえば卯太郎に無理やり手渡されたんでした。食べます?」
「いや、いい」
 その光景を思い浮かべながら高耶が笑顔で断ると、直江はおもむろに紙を開けて包装紙と同じ色のその飴玉を口の中に放り込んだ。
「……ピーチですね」
 律儀に味を報告した直江がそのまま出口へと歩いていくから、
「直江」
と呼び止める。振り返った直江に、高耶は言った。

「"Trick" or "Treat"?」

 悪戯か?饗応か?
 高耶の表情が、さあ、どうすると言っている。
「……………」
 直江は無言のまま早足で高耶の元へ戻ると、覆いかぶさるようにして深く口付けた。
「ん………ッ……」
 ふたりだけの独特のリズムで、濃厚に、ダイナミックに舌を絡めあう。
 ややして、唇を離した直江は少しかすれた低い声で告げた。
"悪戯"は次の楽しみに」
 ………なるほど。
 未練を引き剥がすようにして直江は身体を離すと、そのまま部屋を出て行った。
 残された高耶の口内の異物。
 ピーチ味の飴玉で、高耶はハロウィンの夜を味わった。
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  動物に換生は出来ない。

  してしまえば動物の脳でしかものを考えられなくなるからだ。

  本当はそれをしてもよかった。

  もう、人でいることに疲れていた。

  何が自分で、何が自分ではないのか。

  そんなことはもう考えたくなかった。





 高耶の後を追って大正砦へと来ていた小太郎は、砦の片隅で寝そべっていた。
 ピンと立った耳には様々な音が聞こえてくる。
 すぐそばを流れる清流の水音。岩にあたって跳ね返る水飛沫。
 吹き抜ける風の音やその風に乗る鳥のはばたき。何かの動物の鳴き声。虫の羽音。
 木々は太陽の光を浴びて呼吸している。葉の擦れる音。
 自然の営みを感じ取りながらまるで自分もその一部になったように感じていると、騒がしい足音が静寂を破った。



 高耶の腕を引っ張って無理やり連れてきたのは兵頭だ。
「いつまであの男をここに置いておくつもりですか?!」
 大きな声を出す兵頭の手を、高耶は振り払った。
「次の作戦が終了したら宿毛へ帰す」
 兵頭はそんな言葉では納得しなかった。
「次の作戦にはもう必要ないでしょう。さっさと帰すべきです!」
 それでも視線をそらせたまま何も言わない高耶に、イラついたように言う。
「そんなに傍に置いておきたいがですか」
 高耶がやっと兵頭と視線を合わせた。
 睨み付けている。
「昨夜、相談があって隊長の部屋を訪ねました。けれど、おられんかったです。あの男と一緒におったんやないがですか?」
 施設内を探し回ったのに、見つからなかった。ふたりしてこそこそと隠れて、一体何を企んでいるのか。
「何の話をしていたんですか」
 高耶は苦い顔で口を閉ざしたままだ。
「あの男に話せてわしには話せないことちゅうのはどんなことですか。上杉の頃の昔話でもしちょったがですか。これじゃあ信頼関係もなにもあったもんじゃない」
 兵頭はもう一度高耶の腕を掴んだ。
「橘に価値があると思うのならそれは思い込みです。おんしは気づくべきだ。過去に囚われちょる。そんな感傷は捨てるべきです」
 高耶を引き寄せて、無理やり視線を合わせた。
「換生者でありながら刺客のような捨て駒に甘んじているだけの男です。その程度の実力しかない男を同じ元上杉という理由で厚遇しているようにしかみえない」
 高耶は思わず反論しかけたようだったが、結局黙ったまま動かない。しかし握った拳が震えていた。
 兵頭としては橘の正体に探りを入れたつもりだったのだが、高耶が乗って来ないとわかって仕方なく自ら喋りだす。
「あの男と同じようにわしを扱ってもらえれば、わしはあの男よりもっとおんしを活かしてやれちゅうがです。もちろんポジションは奪い取ればええ。与えられないことを呪ったりはしない。けれど評価が正当でなければどうしようもありません」
 つまり兵頭は、過去の共有を理由に高耶が橘を信頼するのは、フェアじゃないと言いたいのだ。
「上杉なんて名は忘れるべきです。おんしは赤鯨衆の仰木高耶だ。上杉に話せて赤鯨衆に話せないことがあってはならないはずです」
 でなければ反逆とみなされても仕方がない、と兵頭は付け足した。
 ずっと黙って聞いていた高耶がやっと口を開いた。
「お前とあの男のことについて議論する気はない。けど、お前の忠告は聞いておく。疑われるような行動は慎むようにする」
 それでもまだ納得のいってないことが顔に出てしまったせいか、頼むからほっといてくれ!、と強めに言って、高耶は行ってしまった。
 あの男が現れてから高耶は変わった、と兵頭は思う。
 それは、自分や他の者が高耶にしてやれないことを、あの男がしてやれるからなのだろう。
 兵頭は胸を焼くような衝動に、拳を握ってじっと耐えた。



 小太郎は、立ち尽くす兵頭を静かに見つめていた。
 それに気づいて兵頭もこちらを見てくる。まるで、自分はお前のようにはならない、とでもいうように。
 もちろん小太郎の正体について、高耶は誰にも話していない。直江にも口止めしている。
 それでも兵頭には何か感ずるものがあったのだろうか。それとも小太郎の小心がそう思わせるのだろうか。
 しばらくして、兵頭はアジトへと戻っていった。

小太郎には兵頭の心の内がみえるようだった。
 自分が誰よりもそばにいたいと思う欲望。
 高耶の信望者が、あのふたりの絆を眼にすれば、うらやましいと思わずにはいられない。
 高耶の傍らを奪いたい、という願望を抱いても不思議ではない。
 過去に囚われるなという兵頭が、多分一番囚われている。
 それでは、根本的に問題が違うのだ。
 高耶にとって直江は唯一無二だ。その存在こそが高耶にとって必要であり、いわば名前そのものがポジションのようなものだ。
 ただ、それで言えば小太郎も高耶にとっては唯一無二だと、小太郎は知っている。彼には一人一人の人間全員が唯一無二なのだ。高耶の生き方にかかわりたいと思い、全力で高耶にぶつかっていけば、高耶はそれに応えてくれる。そうすることでしか、彼との絆は強まらない。
 他人の真似ではなく、他人のポジションを奪うのでもなく、誰よりも自分であることに忠実な人間であることが大事なのだ。多分直江という男はそれをずっとやってきた。
 もし兵頭が、高耶と直江の関係にとらわれているとしたら、それでは駄目だ。
 高耶にとっては兵頭も唯一無二であることは変わらない。
 そこを伸ばしていくしかないのだ。

 ただ今は、それを伝える術もない。伝えようとも思わない。
 以前なら、サンプルのひとつとして興味を抱いてたかもしれない。
 けれど今は他人の人生を知る必要はない。
 サンプルを集める必要はもうないのだ。
 小太郎は小太郎として高耶の隣にあればいい。
 人の体でいるとどうしても頭で動いてしまう。
 動作の一つ一つ、目線、声色、全てを計算して動かしてしまう。
 ケモノになってやっとそれから開放された。
 すごくシンプルになった。
 ごくわずかな本能、食欲や睡眠欲と単純な望みがひとつだけ。
 高耶の隣にいて飾らない表情を見ていると、満ち足りた気分になる。
 こんな気分にしてくれる彼を絶対に守りたいと思う。
 小太郎は、そんな風に考える自分が今、とても自分らしいと思っている。



「人質?そんなもの必要ない」
 いい考えは無いか、と皆に問いかけたのは自分のクセに、高耶は早田の案を突っぱねた。
「けど、このほうが確実です」
「……………」
 その案に対して一番に何か言いそうな兵頭は、高耶が視線を送っても何も言わない。
「卑怯だとは思わないのか」
「わしらはそんな風に思っちょったら生き残ってこれんかったがです。汚いと言われちょったってええ。絶対に確実な手段を選びたいがです!」
「……わかった。そこまで言うなら認める。ただし、絶対に人質を傷つけるようなことはするな」
 誰にも文句は言わせない眼で周囲を睨み付けると、高耶は部屋を出て行った。
 すると、ずっと腕を組んだまま無言でいた兵頭も後を追うようにして行ってしまう。
「傷つけられん人質など、意味がないがじゃ!」
 隊士の一人が叫ぶと、呟くように早田が言った。
「隊長は味方には厳しいくせに、敵には甘いお人じゃき……」


 追ってきた兵頭が何も言わないうちから、高耶は口を開いた。
「別にいい子ぶってるわけじゃない。あいつらにはちゃんと実力がついてるのに。自信を持っていいのに!」
 こんな作戦必要ない、と高耶は声を荒げる。
 兵頭のほうは、宥める訳でもなく同調するでもなく、いつもと変わらない調子で言う。
「わしらは正義や名声や他人のために戦ってきた訳ではありません。生活の為に戦という"手段"をとったまで。だから失敗してしまっては意味がないがです。用心に用心を重ねて確実性を求めるのは当然のこと。そうやって手段を選ばずに来たことが、赤鯨衆をここまで生き残らせ、強くした理由でもあるがです」
 一息ついて、更に続ける。
「けれど今回は隊長に加えて自分もいますき、人質無しで戦闘に持ち込んでも確実性という意味では劣らないでしょうね」
 少し驚いた顔で聞いていた高耶は、
「栃木あたりにお前みたいな坊主がいそうだよな」
と言った。
 まるで説教を聞いてるみたいだという。
 何故、栃木あたりなのかと問う兵頭には答えず、
「案外、似合うかもしんねーぜ」
と笑った。
 思わず見とれてしまうほど楽しそうに笑った高耶の表情は、またすぐに真顔に戻ってしまう。
(またあの表情だ)
 老人が昔を懐かしむような、子供が無心に空想しているような瞳で宙を見つめている。
 近寄りがたい雰囲気が、どうしようもなく高耶を包む。
 あの無遠慮な武藤ですら、このオーラを出されると声をかけられないらしい。
 兵頭は、自分が母親の横顔を重ねていることに気付いた。
 自分では絶対に手の届かないことを考えているであろう母親の横顔。
 あの頃はそれを、神秘的で神聖なもののように感じていた。
 高耶の瞳には、いったいどんなものが映っているのだろう。
(……そんな消極的でどうする)
 昔と今は違う。
 もうあの時の自分ではない。
 不思議と惹かれるこの男の強さとはなんなのか、見極めるのではなかったか。
 暴いてみせるのではなかったか。
 きっと戦場を共にすることで、彼の見つめるものが解る時が来る。
 ともに戦うということは何より相手を理解できるようになるからだ。
 これからますます状況は厳しくなる。
 高耶がそれを乗り越えていくために、今は自分がそれを支えよう。
 が、あくまでも今は、だ。
 高耶の見つめるものに同調できない可能性は充分にある。
 その行動次第でいつでも自分は反旗をひるがえす。
 隙をみせれば食い尽くす厳しさを持って、兵頭は高耶の横顔を見つめた。


 他人に対する愛なんて、オレの中には微塵もない。
 いつだってオレを苦しめる、こんな世界、愛してなんかいない。
 魂核寿命?馬鹿げてる。死者と生者の間で気を揉み続けた結果がこれか。
 体力と気力をすり減らし、魂まですり減らしていたということか。
 もう他人のワガママに付き合うのはご免なんだ。面倒見きれない。死のうが生きようが、好きにすればいい。この世だろうがあの世だろうが、好き勝手にやってくれ。
 どうかオレを巻き込まないで欲しい。もう、放っておいてくれ。

 これはたぶん責任転嫁なんだ。
 願いだなんてキレイなものじゃなく、どうしても消えないこのエゴを、自分ではもう背負いきれないと、背負いたくないと音を上げて、他人に押し付けたいんだ。
 だって愚かな人間達は、説得しようとしたって、必死で叫んだって、我が身を振り返ろうともしない。何も解ろうとしない。知ろうともしない。聞く耳をもたない。
 自分に都合の悪い部分から眼を逸らし、見たいものだけしか見たがらない。
 手の中にあるもの事など考えない。無いものばかりを追いかける。隣を見ては羨み、その隣を見ては蔑む。
 そうして満足を拒否し続けた心は、肉体が滅びても消えずに残る。

 喪失って初めて気付く愚か者達。さあ、足宛くがいい。苦しめばいい。それはきっと手にしていたものの尊さに気付けなかったお前達への罰だ。その手の中のもので満足しきれなかった、お前達の貪欲さに対する制裁だ。
 否定された?虐げられた?ならばお前達が他人にしてきたことは何だ?
 救ってやろうなんて思わない。手助けなんてするつもりもない。
 けれどお前達は自分の醜い足掻きに他人を巻き込もうとさえする。自己弁護の咆哮を上げ、他を引きずり込み、巻き込まれ堕とされた者がまた叫び、足掻く。無意味に拡大するその愚行の輪。その存在の矮小さと醜さに呆れすぎて言葉もない。
 もういい。もう本当に手に負えない。
 もう優しく誘導したりはしない。気長に待ってもやらない。もう期待したりしたくない。聖なるチカラも使ってやらない。オレはもう自分の手は汚したくない。

 今からオレは、この救いようのないループを破壊する。

 まずはお前達が見たがらないものを強制的に見せてやろう。人間のどうしようもない馬鹿さ加減を目の前に突き出してやろう。そうすればその救いようのない脳ミソも、手にしている特権とその有限性に気付くことが出来るだろう。それでもすぐには理解できない、しない者たちがいるというのなら、羨み足掻く者が絶えないというのなら、絶対に他人を巻き込めないようにしてやる。怨嗟の鎖を断ち切ってやる。

 オレを好きなだけ責めればいい。見たくなどなかったと、肉体の無い延命など必要ないと、自己救済に巻き込むなと、単なるエゴだと、新ルールの押し付けだと、独断の法改正だと。オレはそれを否定はしない。
 けれどもこれは、積もり積もったお前達の罪が具現化したものだ。お前達が見まいとしてきた、世界の不条理そのものの姿だ。

 人が人を否定し、拒否し続ける限りこの反自然の独立国は機能し続ける。終わらせたいというのなら、そのための答えは、お前達自身の中にこそある。まずは、お前達が知らなければならない。自分自身の心の奥底にある、誰にも譲ることの出来ない自分だけの真実を。そして、互いのそれを認め合い、尊重しあわなければならない。
 もし、そのかけがえのない真実を、侵略し蹂躙する者たちが現れた時は、お前達はそいつらと戦わなければならない。自分が存在することの意味をかけて。心の底からの願いをかけて。きっと、自分の強さに驚くだろう。人間には、譲れないものを護るための底知れぬ強さがある。
 もし戦いに敗れても、何度だって挑めばいい。ひとりでは無理だというのなら、周りを見回してみろ。必ず、同じように戦う仲間達がいる。
 そうやって生きて、生きて、生きられたら、人として生まれたことを、自分という人間であれたことを、生きることそのものを、誇れるようになる。

 いつか、もう自分は充分だと思う時がきたら、全てをまっとうしたと思うことが出来たら、一緒に、眠ることを考えよう。
 今までの自分を振り返りながら、お前という人間の幸福を噛み締めながら、少しの間、一緒に歩こう。
 心の熾き火が燻ってうまく眠れないときは、俺が話を聞いてやろう。戦いの記憶に苛まれるのなら、俺が背中をさすってやろう。眠りにつくその時まで、ずっと傍にいよう。
 お前が世界中から糾弾される存在でも、時が経ちすぎて世界から忘れ去られても、オレだけはお前達の傍らにあって、最期まで、お前を護るものであろう。


 静まり返った船のへりから、高耶はひとり海を眺めていた。
 夜明け前の風に吹かれていると、霊繊維の服だけでは少し肌寒い。秋の気配が漂い始めている証拠だろうか。
 しばらくしてから甲板に誰かが出てきた。気配だけでそれが直江だとわかる。振り返らない高耶の肩へ、何も言わずに上着をかけた。眠れない理由が、訊かなくとも解るのだろう。そのまま高耶の後ろに寄り添って立った。
 傍に寄るなと言おうとして顔を見上げると、そこには昔のような優しい微笑みは無く、無表情に近い顔があった。それで高耶は注意する気も失せてしまった。直江のその瞳が見ているものを思えば、少しくらい好きにさせてやったっていい。仰向くようにして肩口に体重を預けると、両腕を回して支えてくれた。
「すごいな」
 見上げると、そこは満天の星空だった。
 市街地から見た空だから、満天というのは少し大げさな表現かもしれないが、少なくとも四国の灰色の空を見慣れた高耶にはそう思えた。
「ええ」
 深い声が、身体の触れ合った部分から響いてきた。高耶を心の底から安心させる声色だ。
 そのままふたりで佇んでいたが、しばらくしてから先程と同じ声で直江が言った。
「もう戻りましょう」
 あと数時間もすれば行動を開始しなくてはいけないことは高耶もわかっている。
「もう少し」
 それでもこの時間が惜しかった。
「駄目です」
 いやに断定的に言う直江を変に思って、高耶から身体を離して振り返った。
「あなたを"治療"しなくては」
───直江」
 中川がわざわざ外地から送ってくれた検査結果は、この男に都合の良い言い訳を与えただけだったらしい。
「武藤も久富木もいるんだぞ」
 この男の思うままにしてしまったら、船ごと揺らしかねないと高耶は本気で思った。
 直江の視線が滑るように海へと移る。
「海というのは、ただ荒々しいだけではないでしょう」
「………?」
 海には確かに、厳しく容赦ない面もある。嵐の晩、高波を猛然と荒げた海などは、誰にも鎮めることは叶わないだろう。収まるのを待つしかない。
 しかし、鏡のような水面を保ちながら、静かな波で砂浜を濡らすような夜。そんな時は、波の音は全ての人間を癒やす音楽へと変わる。月明かりの中、一定のリズムで、耳を傾ける人間が満足するのを待つように、ただ静かに波を寄せ続ける……。
 その脳裏に広がった穏やかな光景は、高耶にはひどく煽情的に映った。直江のそんな面も、味わってみたい。
 差し出された左手を、高耶は掴み返した。
 空の片隅が白み始めている。
 夜明けまでは、あとわずかだ。
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