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 目を覚ますと、いい匂いがした。
 香ばしい味噌の香り。どうやら誰かが朝食の準備をしているらしい。
 もやのかかった様な頭で、ぼんやりと起き上がってはみたものの、どうも状況が把握できない。
 自分はろくに着替えもせずに眠ってしまったようだ。
 カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
 直江は眩しくて目を細めた。
 隣の部屋からは、かちゃかちゃと食器の音がする。
──ああ、ここはふたりの家だ
 と思い当たった。
 他の誰の侵入も許さない、ただ二人が過ごす為だけの家。
 脈絡のない風景がいくつもフラッシュバックする。
 霧に包まれた白い木々……針葉樹の目立つ暗い森……岬から見下ろす果てのない海……。
 外に広がる景色を確かめようと思ったところで、ちょっと乱暴にドアが開いた。
 立っているのは少々口を尖らせた、最愛の人。
「いつまで寝てんだよ」
 いつものシャツとジーンズ姿で、手にはおたまを握っている。
「おはようございます、高耶さん」
「お早くねえよ。おそようじゃねえか。」
 時刻をみる限り、世間一般から見ても決して遅い時間ではないのだが、最近の高耶は妙に早起きだ。
 炊事に洗濯にと朝からせわしなく動いていることが多い。
 家事の殆どがまかせっきりで、直江としては申し訳ないと思うのだが、高耶にしてみれば、慣れない手つきの直江の後始末をするよりその方がありがたいらしい。
 長々と説教を垂れそうな顔つきでおたまを振り回す高耶をみていると、どうしても顔が緩んでしまう。
 怒られることすら直江には楽しかった。
「ニヤニヤしてんじゃねぇよ! さっさと起きろって!」
「はいはい」
 そう応えながら、すっかり呆れきった高耶の顔を、直江はずっと眺めていたいと思った。
 その切れ長の眼や高めの鼻梁や少し厚めの唇を見るのは、なんだか随分久しぶりな気がしたからだ。
 このところは毎日一緒で、もちろん昨日の夜だってかなり濃厚な時間を過ごしたのだから、もちろんそんなはずはない。
 高耶に狂った自分には1秒でも姿を見なければもう久しぶりなのだろうか?
 いい加減、どうしようもない男だな、と思った。
 緩んだ顔のまま黙って見つめていると、呆れ顔がだんだん怒った様になってくる。
 直江は何だか愛しさで身体が破裂しそうだと思った。腕を掴んで少々強引に引きよせた。
「愛してる」
 そう言葉にしてみても衝動は収まりそうになかった。
 高耶はしばらく怪訝な顔でいたが、その先に言葉が続かないのを悟って言った。
 やっぱり怒った様に。
「飯、冷めんぞ」
 いい加減、照れ屋だ。苦笑いで開放した。
「そうですね。おなかがすきました」
 高耶は、馬鹿なやつには付き合ってらんねー、などとブツブツ言いながらドアへ向かったが、ふと、立ち止まると振り返った。
 既に朝食への期待を膨らませて立ち上がった直江は、気付いて動きを止める。
 何かを躊躇するように視線を下げていた高耶は、ややして顔をあげた。
「言葉が必要か?」
「高耶さん」
「言葉が……欲しいか?」
 ちょっと驚いた気分で高耶を見た。
 そうではないのだ。直江は別に言葉をねだったつもりは無かった。
 気持ちを確認したかった訳では無い。ただ自分の感情をどうにかしたくて言葉にしただけだ。
「オレがお前を感じる様に、お前もオレを感じられたらいいのにな」
 真顔の高耶に思わず言葉を失った。
 それは、言葉などにしなくても、この尽きることのない想いは高耶に伝わっているということだろうか。
 そうだろう。同様に、高耶の想いも全て直江には解っているのだから。
 日々の愛の言葉は、相手を思いやってのものではなく、ただ自分から溢れるものを知って欲しくて一方的に伝えていたのだが、もうその必要すら無いのかもしれない。
「感じていますよ」
 直江だってちゃんと感じている。
 今この瞬間も、こんなにも。
 全身で、包まれるように、満たされている。
 本当に、穏やかで幸福な日々だ。
 この境地に立っている自分達が何だか感慨深かった。
「よかった」
 高耶が少し安心したように、そう言った。
 と、その瞬間、窓から入る光が一段と強くなった。
 高耶が眩しそうに光を見る。
「朝だ」
 直江には高耶の言うことが瞬時には理解できなかった。
 もう既に朝は訪れているのではないか。
「お前に、ちゃんと飯を食わせたかったのに」
 その言葉自体は不満気だったが、表情は幸福そうに見えた。
 名残惜しそうにも見える。
 間違いなく笑顔ではあった。
 窓から差し込む光はどんどんと強くなり、部屋や高耶や自分をどんどんと飲み込んでいく。
 直江は高耶に向かって手を伸ばしたが………。
 やがて視界は真っ白になった………。

 目を開けるとブラインドの隙間から一筋の光が差し込んで、ちょうど直江の頬に当たっていた。
「………」
 穏やかな夢だった。
 幸福感が未だに胸に残っている。
 直江は自分の顔が笑っているのに気付いた。
 幼い頃の夢を大人になって思い出すのに似ている。
 誰も知らない場所で、ただお互いだけを感じて永遠に過ごす。確かに以前、それを望んだこともあった。
 もちろん自分の歩んできた道に後悔は微塵もない。今となっては残り香のように甘い余韻を残すだけだ。
 あなたが私に見せてくれたんですか、それとも───
(あなた自身の夢ですか?)
 直江は自分の中の高耶に問いかけた。
 彼もまた、楽園を夢見たことがあったはずなのだ。
 人はユメをみる。
 またユメをみるがために迷う。
 未来への希望。かなわなかった願い。不可能だと知っているとりとめもない妄想。理想。
 一時的な幸福感。
 どんなに信じた道を歩いていても、無意識のうちに入り込んでくる、現在とは違う結末や、この先への迷い。
 あっちの方が正解ではないのかと迷い、こっちの方が幸福ではないのかと迷う。
 それを思わなく無ればそれはもう人の域ではないのであろうと思う。
 人類が持つ豊かな想像力の副作用なのかもしれない。
 迷い、夢を見ながら決断を下し、やがてその決断が新たな迷いや夢を生む。
 もしかしたらそれの繰り返しこそが人の生といえるのかもしれなかった。
 けれど。
 胸に手を当てるとゆっくりとした鼓動が感じ取れた。
 ふたりはいま、ここにいる。
 楽園はいま、ここにある。
 ともに在るという幸福。
 かつてみたユメは今、現実のものとなった。
 交わした約束を、自分たちは永遠に実現し続ける。
 ふたり一緒に最善の道を探り続ける。
 それはもう、永久に変わることはない。

 相変わらず重い手足を疎ましく思いながら、起き上がった。
 毒に侵された身体は、今では熱も引くこともなく、内臓もあちこちが痛んで、食欲も全く無かったが。
(今日は朝食を摂ろう)
 直江は思っていた。
 高耶の言う通りにちゃんと食事を摂り、地に足をつけて「生きる」という事をしなくては。
 身体を叱咤するようにしてベッドを出ると、光の差し込むブラインドを開ける。
 そこは白い林でも深い森でも広大な海でもなく、夢を見、迷う人々の生きる街だった。
 今日も沢山の人々が喜び、悲しみ、幸せになり、後悔をしながら生活している。
 高耶の示したものは多くの人々に受け入れられはしたけれど、そこで終わり、ではない。
 生きるということは前に進むことだ。人の心は途切れることなく続いていく。
 今の直江には、"今"以外の夢にひたり、心を迷わせている暇はない。
 あなたの大地をともに往くために。
 そしていつか、この世で一番最後の夜明けを見るために。

 直江はそうして迷夢から抜け出し、日々へとかえっていく。








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