「嫌だ」
私は、再び首を横に振った。
青年は私の横に立って、呆れたような顔をしている。
「別に、ノルマがあるとかそういうんじゃない。あんたの歩きたいペースで、歩きたいように歩けばいい」
まあ、順番は決まってるけどな、と青年は付け足す。
「嫌だ」
私は、三度首を横に振った。
「……あっそ」
彼はくるりと後ろを向くと、そのまま歩いて行ってしまった。
それを見て、私は先程の強気な発言とは裏腹に、急に不安に襲われる。こんなところで放置されてしまって、一体この後どうしたらいいのだろう。
ここは、四国八十八カ所第一番札所・霊山寺の駐車場。
そこで私は、地面に胡坐をかき、腕組みをしながらしかめっ面をしている。
そのままどこかへ去ってしまうかと思われた青年は、社務所のすぐ傍に設けられた休憩所から椅子を一つ持ち上げると、戻ってきて私の隣に置いた。
「時間はたっぷりある。好きなだけゴネればいいさ」
そう言うと、青年は置いた椅子に腰掛けた。背もたれに寄りかかって、長い足をゆったりと組む。そうして腕組みで、駐車場に停まっているおんぼろマイクロバスの傍でたむろする賑やかな一行に眼を向け始めた。
私は、その横顔を恨めしい思いで見つめた。
黒いストレートの髪。健康的な肌色。言い知れぬ強さを秘めた赤茶色の不思議な瞳。奇妙なことに、私はこの青年の姿を幾人も見かけたが、他の青年たちは白い着物の姿であることが多く、同じ白ではあるが丈の長い印象的なコートを羽織っているのは"私の青年"だけだった。
映画にでも出てきそうな容姿をしたこの青年は、先程私に「あんたは死んだんだ」とストレートに告げてきた。
別に私はその態度が年上に対するものとは思えなかったから怒っている訳ではない。
ここへ辿りつく前に、もしかしたら私は死んだのかもなあ、とぼんやり思ってはいたから、告げられた事実に仰天して腹を立てている訳でもない。ちなみに言うと、同時に知らされたこの青年が成仏するまで見届けてくれるというおせっかいなシステムにも、いつの間にか着せられていたこの白い装束にも、別に文句を言うつもりはない。ただ私は、
「何で成仏するのに四国中を歩き回らなきゃいけないんだ!!」
このことに、怒っているのだ。
「結構、あっという間だぜ?もう一周したい、なんていう人だっているくらいだし」
「二周するとどうなる?スタンプカードが二枚になって、景品と交換できるのか?」
「……その発想は、無かったな」
青年は、再び呆れ顔になって私を見下ろしてきた。困ったヤツ、と思っているのがよくわかる。
私の中で、猛烈に反抗心が湧きあがる。
自慢じゃないが、生前の私は運動という代物には全く縁がなかった。
生来身体が丈夫じゃなかったという理由もあるが、何故好き好んで筋肉を酷使したり汗をかいたりしなければならないのか、さっぱりわからない。人間の身体は、日々の生活で充分にカロリーを消費出来る仕組みになっている。それを無視してまでカロリーを過剰消費し、それを補うためにカロリーを過剰摂取する……。馬鹿げている。
「巡回バスとか、タクシーを使っていいとか……」
「あんなのは、生身の人間が使うもんだ」
「そういえばさっき、君は姿を自由に変えられると言っていたな」
「オレに、他者の姿を投影する人もいるって言ったんだ」
「なら、乗り物になって欲しいと私が思えば、君は乗り物に変身できる?」
「……本気で言ってるのか」
ジロリと睨まれてしまった。
はあ、と私は深くため息をつく。本気だったのに。
「一体いつから……どうしてこんなルールができたのか……」
少なくとも私の両親が子供の頃には、こんなシステムはなかったはずだ。母は小さい頃高知に住んでいたから、以前の四国というものをその目で見て知っていた。"こう"なる前の四国には死者が集まることもなく、他と変わらない土地だったという。きっと大昔にあったという"大事故"や、APCDに関する一連の事件が……。
(ん?)
そう言えば私は、この青年の顔をどこかで見たことがあると思った。
「死んで、魂はどこへいく?」
「………?」
私は、隣に座る青年を見上げた。
「あの世、かな」
漠然と答えてみる。"あの世"というものの存在自体には疑問を持っているが、自分が成仏した後に行くべき場所に名前をつけるとしたら、それしかないだろう。
「そう」
青年は、当然といった顔で頷いた。
「しかしこの世に未練を残して死んだ魂は、あの世へは行けない。だからといってこの世に居場所が用意されている訳でもない。だから以前は、居場所を得るために生きている人間の身体を乗っ取るしかなかった」
「乗っ取る……」
「そう。そのせいで、この世に残ってしまった霊魂は、長らく存在してはいけない存在として扱われてきた」
青年は、遠い昔を振り返るような目つきになった。
「オレは、この世に未練を残して死ぬことは、罪ではないと思った。けれど生き人の身体を乗っ取って、人生を害することは罪だと思った。だから、このルールを実行することにしたんだ」
"ルールを実行"?聞き違いか、と一瞬自分の耳を疑ったが、いや、間違いなく彼はそう言った。つまり彼が、このシステムを作ったということか?
「ここでなら、生き人の生を害することなく、居場所を得ることができる」
驕った風でもなく、彼は素直にそう話した。まるで、今まで何百回、何千回もそう説明してきたかのように。そしてその様子は、相手にそのことが当然であると納得させる力を持っていた。
「つまり私は、未練があったからこの世に残ったのか」
「それはあんた自身のことだ。自分でよくわかってるだろう?」
「わからないから聞いているんだ」
「……そういったことも、本当は歩きながら考えるんだ。立ち止まらず、前に進むことでしか見えないものがあるからな」
「どうしても、歩かなくては駄目なのだろうか。今すぐに成仏する方法は、ないのだろうか」
「エスケープは、余程の理由が無い限り駄目だ。あんたはただ歩くのを面倒臭がって言ってるだけだろう?だったら、理由としては不十分だな」
私は、またため息をつくしかなかった。
やはり、歩かねばならないのだろうか。
すっかりうなだれてしまって、ぼんやりと社務所の様子を眺めていると、男性がひとり、何かの袋を手に持って出てきた。私の視線は、その人物に釘付けになる。
「あの男、生きてる人間とは何かが違う……」
「……憑依霊だからな」
「ヒョウイレイ?」
「つまり、生き人の身体を死者の魂が乗っ取った状態ってことだ」
そう言われて、えっと思った。
「それは、しなくてもよくなったんじゃなかったのか?」
青年は、痛いとこを突かれたとばかりに苦い顔になる。
「死者の中には、肉体を欲しがるものもいる」
「それを君は許してるのか!?」
「許してるのは、あの憑巫……つまりあの身体の本当の持ち主である魂だ。そいつの生きる意欲より、あの憑依霊の肉体への執着心が勝っているってことなんだ」
そんなのおかしい!、と私は思わず叫んでいた。
「身体は持ち主のものであるべきだろう!」
「そうだな……その通りだ。でもオレには、あの憑依霊が肉体にしがみつきたくなる気持ちを否定もできない。肉体を持ち、生きるということは、ものすごく……」
そこまで言って、青年は次の言葉を紡ぐのに、とても時間をかけた。
「ものすごく、素晴らしいことだ。もう一度、と思う気持ちもよくわかる」
そう言いながら、一方でそのことを許してはいないという意思もよく伝わってきた。青年の中に、死者の想いを否定したくないという気持ちと、生者の人生を護りたいという矛盾した気持ちがあることは、何となく察しがついた。そして、"素晴らしい"という表現に、もっと違った意味が込められているということも。
「君も、憑依したいと思っているのか」
私がそう言うと、青年はびっくりしたような顔をした。
私は、再び首を横に振った。
青年は私の横に立って、呆れたような顔をしている。
「別に、ノルマがあるとかそういうんじゃない。あんたの歩きたいペースで、歩きたいように歩けばいい」
まあ、順番は決まってるけどな、と青年は付け足す。
「嫌だ」
私は、三度首を横に振った。
「……あっそ」
彼はくるりと後ろを向くと、そのまま歩いて行ってしまった。
それを見て、私は先程の強気な発言とは裏腹に、急に不安に襲われる。こんなところで放置されてしまって、一体この後どうしたらいいのだろう。
ここは、四国八十八カ所第一番札所・霊山寺の駐車場。
そこで私は、地面に胡坐をかき、腕組みをしながらしかめっ面をしている。
そのままどこかへ去ってしまうかと思われた青年は、社務所のすぐ傍に設けられた休憩所から椅子を一つ持ち上げると、戻ってきて私の隣に置いた。
「時間はたっぷりある。好きなだけゴネればいいさ」
そう言うと、青年は置いた椅子に腰掛けた。背もたれに寄りかかって、長い足をゆったりと組む。そうして腕組みで、駐車場に停まっているおんぼろマイクロバスの傍でたむろする賑やかな一行に眼を向け始めた。
私は、その横顔を恨めしい思いで見つめた。
黒いストレートの髪。健康的な肌色。言い知れぬ強さを秘めた赤茶色の不思議な瞳。奇妙なことに、私はこの青年の姿を幾人も見かけたが、他の青年たちは白い着物の姿であることが多く、同じ白ではあるが丈の長い印象的なコートを羽織っているのは"私の青年"だけだった。
映画にでも出てきそうな容姿をしたこの青年は、先程私に「あんたは死んだんだ」とストレートに告げてきた。
別に私はその態度が年上に対するものとは思えなかったから怒っている訳ではない。
ここへ辿りつく前に、もしかしたら私は死んだのかもなあ、とぼんやり思ってはいたから、告げられた事実に仰天して腹を立てている訳でもない。ちなみに言うと、同時に知らされたこの青年が成仏するまで見届けてくれるというおせっかいなシステムにも、いつの間にか着せられていたこの白い装束にも、別に文句を言うつもりはない。ただ私は、
「何で成仏するのに四国中を歩き回らなきゃいけないんだ!!」
このことに、怒っているのだ。
「結構、あっという間だぜ?もう一周したい、なんていう人だっているくらいだし」
「二周するとどうなる?スタンプカードが二枚になって、景品と交換できるのか?」
「……その発想は、無かったな」
青年は、再び呆れ顔になって私を見下ろしてきた。困ったヤツ、と思っているのがよくわかる。
私の中で、猛烈に反抗心が湧きあがる。
自慢じゃないが、生前の私は運動という代物には全く縁がなかった。
生来身体が丈夫じゃなかったという理由もあるが、何故好き好んで筋肉を酷使したり汗をかいたりしなければならないのか、さっぱりわからない。人間の身体は、日々の生活で充分にカロリーを消費出来る仕組みになっている。それを無視してまでカロリーを過剰消費し、それを補うためにカロリーを過剰摂取する……。馬鹿げている。
「巡回バスとか、タクシーを使っていいとか……」
「あんなのは、生身の人間が使うもんだ」
「そういえばさっき、君は姿を自由に変えられると言っていたな」
「オレに、他者の姿を投影する人もいるって言ったんだ」
「なら、乗り物になって欲しいと私が思えば、君は乗り物に変身できる?」
「……本気で言ってるのか」
ジロリと睨まれてしまった。
はあ、と私は深くため息をつく。本気だったのに。
「一体いつから……どうしてこんなルールができたのか……」
少なくとも私の両親が子供の頃には、こんなシステムはなかったはずだ。母は小さい頃高知に住んでいたから、以前の四国というものをその目で見て知っていた。"こう"なる前の四国には死者が集まることもなく、他と変わらない土地だったという。きっと大昔にあったという"大事故"や、APCDに関する一連の事件が……。
(ん?)
そう言えば私は、この青年の顔をどこかで見たことがあると思った。
「死んで、魂はどこへいく?」
「………?」
私は、隣に座る青年を見上げた。
「あの世、かな」
漠然と答えてみる。"あの世"というものの存在自体には疑問を持っているが、自分が成仏した後に行くべき場所に名前をつけるとしたら、それしかないだろう。
「そう」
青年は、当然といった顔で頷いた。
「しかしこの世に未練を残して死んだ魂は、あの世へは行けない。だからといってこの世に居場所が用意されている訳でもない。だから以前は、居場所を得るために生きている人間の身体を乗っ取るしかなかった」
「乗っ取る……」
「そう。そのせいで、この世に残ってしまった霊魂は、長らく存在してはいけない存在として扱われてきた」
青年は、遠い昔を振り返るような目つきになった。
「オレは、この世に未練を残して死ぬことは、罪ではないと思った。けれど生き人の身体を乗っ取って、人生を害することは罪だと思った。だから、このルールを実行することにしたんだ」
"ルールを実行"?聞き違いか、と一瞬自分の耳を疑ったが、いや、間違いなく彼はそう言った。つまり彼が、このシステムを作ったということか?
「ここでなら、生き人の生を害することなく、居場所を得ることができる」
驕った風でもなく、彼は素直にそう話した。まるで、今まで何百回、何千回もそう説明してきたかのように。そしてその様子は、相手にそのことが当然であると納得させる力を持っていた。
「つまり私は、未練があったからこの世に残ったのか」
「それはあんた自身のことだ。自分でよくわかってるだろう?」
「わからないから聞いているんだ」
「……そういったことも、本当は歩きながら考えるんだ。立ち止まらず、前に進むことでしか見えないものがあるからな」
「どうしても、歩かなくては駄目なのだろうか。今すぐに成仏する方法は、ないのだろうか」
「エスケープは、余程の理由が無い限り駄目だ。あんたはただ歩くのを面倒臭がって言ってるだけだろう?だったら、理由としては不十分だな」
私は、またため息をつくしかなかった。
やはり、歩かねばならないのだろうか。
すっかりうなだれてしまって、ぼんやりと社務所の様子を眺めていると、男性がひとり、何かの袋を手に持って出てきた。私の視線は、その人物に釘付けになる。
「あの男、生きてる人間とは何かが違う……」
「……憑依霊だからな」
「ヒョウイレイ?」
「つまり、生き人の身体を死者の魂が乗っ取った状態ってことだ」
そう言われて、えっと思った。
「それは、しなくてもよくなったんじゃなかったのか?」
青年は、痛いとこを突かれたとばかりに苦い顔になる。
「死者の中には、肉体を欲しがるものもいる」
「それを君は許してるのか!?」
「許してるのは、あの憑巫……つまりあの身体の本当の持ち主である魂だ。そいつの生きる意欲より、あの憑依霊の肉体への執着心が勝っているってことなんだ」
そんなのおかしい!、と私は思わず叫んでいた。
「身体は持ち主のものであるべきだろう!」
「そうだな……その通りだ。でもオレには、あの憑依霊が肉体にしがみつきたくなる気持ちを否定もできない。肉体を持ち、生きるということは、ものすごく……」
そこまで言って、青年は次の言葉を紡ぐのに、とても時間をかけた。
「ものすごく、素晴らしいことだ。もう一度、と思う気持ちもよくわかる」
そう言いながら、一方でそのことを許してはいないという意思もよく伝わってきた。青年の中に、死者の想いを否定したくないという気持ちと、生者の人生を護りたいという矛盾した気持ちがあることは、何となく察しがついた。そして、"素晴らしい"という表現に、もっと違った意味が込められているということも。
「君も、憑依したいと思っているのか」
私がそう言うと、青年はびっくりしたような顔をした。
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