幾重にも張り巡らした鉄条網が、錆びていく。
深く掘った濠は干上がり、鉄の壁も触れれば崩れ堕ちる。
厳重な護りで固められた心の奥の奥、一番弱い部分に触れられるのは、いつだっておまえだけだった。
けれどいま、その護りは脆くも崩れ去り、大切なはずのものが無防備に、外気に晒されている。
直江。
何故おまえはそれを許せるんだ?
この間、初めてあった赤の他人が、オレのその部分に触れてきた。
こんな状況を、何でおまえは許してるんだ?
□ □ □
ホテルの部屋の鍵を開け、小太郎は先に高耶を中へ入れた。
入るなり、高耶は服を脱ぎ始める。
小太郎はカードキーをテーブルの上に置いてから、尋ねた。
「夕食はどうされますか」
「いらない」
「少しは何か食べないと身体に───」
「いい」
"身体の心配をすること"は綾子から教わった直江信綱らしい行動のひとつだったのだが、今日の高耶の気には召さなかったらしい。
「早く、シャワーが浴びたい」
高耶はすでに上半身を脱ぎ終わって、ズボンのベルトの手をかけている。
小太郎がいると脱ぎにくいから、早く出て行けということだろう。
「明日の出発は何時になさいますか」
「…8時」
高耶の答えを聞いて、小太郎は一瞬動きを止めた。
(今の間)
出発時刻を言う前の、わずかな間。
この間が最近、小太郎を酷く悩ませている。
「直江?」
「………わかりました。では明日、8時に」
「ああ」
高耶の部屋を後にして、小太郎は知らず知らずのうちにため息をついていた。
先程の間。
たぶんかなり長い時間を高耶と過ごさない限り、気付かないだろう。
実際、最初の頃の自分は違和感すら感じなかった。
けれど今は解る。
(あれは、"直江"に何かを求めている合図だ)
けれど小太郎にはそれが何なのか、さっぱりわからない。
小太郎はもう一度大きく息を付くと、自分の部屋へと向かった。
何か規則があるのではないかと、探ってみたりもした。
前後の何気ない行動から、その日全ての行動を洗い直した。
小太郎自身の行動や、その時扱っている事件の種類、場所、時間、果てはその日の天候までデータ化してみたが、なんの法則も見つからなかった。
ある時は先程のように、事件後の宿の部屋で。
ある時は車を運転中の何気ない会話の中で。
ある時は事件の経過報告の電話越しに。
合図があるということは、それに呼応する何かしらの行動があるということだ。
いったいそれは、何なのだろうか。
「んなの、直江にしかわかんねーよ」
ツインルームの片方のベッドの上から、千秋は投げやりに言った。
「それでは困る」
「困るったってねえ……」
こっちも困るっつーの、とうつ伏せになってぼやいている。
「俺だってあいつらの言動やら行動やら、全部を見てた訳じゃねえからなあ」
「けれど私よりは確実に知っているはずだ」
「そりゃあ、そうだけどな……」
しばらく考えていた千秋は、こんな話、したくもねえ、と言いつつ口を開いた。
「つまりな、景虎が求めてんのは、愛情表現……つーか、コミュニケーションなんだよ、たぶん」
「コミュニケーション?」
「ただ必要なことを喋ってるだけじゃあコミュニケーション不足ってこと。あいつらにはあいつらのやり方があるからな」
「その、やり方とやらが知りたい」
「だから、そんなのは直江にしかわかんねーだろ」
「どうしてだ?何故わからない?」
「ほら、SMプレイじゃあ鞭で叩くのがコミュニケーションの手段だろ。幼児プレイだったらオムツ替えんのがそうだ。でも、大抵の人間はそんなことしないだろ。つまり、同じ嗜好を持った者同士じゃねーとわからないことがあるんだよ」
なるほど、と小太郎は手を顎へとやった。
「鞭で……叩く……」
「こら。それは例えだからやるんじゃねーぞ?」
すっかり寝る体制の千秋は、眼鏡を外してサイドボードへ置いた。
「そんなに極端じゃなけりゃあ、そこらへんの夫婦にだってあるんだろーぜ。ふたりだけにしかわからない感情表現みたいなのが」
「例えば」
「例えば?あー、夕飯がハンバーグだったらいいことがあった証拠だから聞いてみるとか、朝テーブルに新聞がなければ機嫌が悪い証拠だから気を使ってみる、とかさ」
千秋は説明をしながら、自分で頷いている。
「あいつらにもそういうのがあって、その"間"とやらはそーゆーのの一環なんだろ。でも、そんなルールは書面にしてある訳でもなければ、約束事ってわけでもない。ふたりの感覚的なものだろ」
だから直江にしかわかんねーって言ってんの、と言って、千秋はソファに備え付けのクッションを股の間に挟みこんだ。そうやって眠るのが癖らしい。
小太郎は、まだ深く考え込んでいる。
(つまり、逆に考えれば……)
「それさえわかれば、私は直江として更に強く認識されるという訳だな」
「……まあ、そーなるかな?」
ポリポリと頭をかいた千秋は、もう寝るぞ、と言って布団を被った。
(そうなるだろう)
あの"間"は、小太郎が直江らしくあるための、新たなる突破口でもあるということだ。
これは、ますます研究しなくてはならない。
(まずは、観察だ)
"間"以外にもそういうルールがあるのに、自分は見落としているかもしれない。
("景虎様"をもっとよく知ろう)
千秋がさっさと照明を落としてしまったせいで部屋は真っ暗になったというのに、小太郎はその後もしばらく、動くことなく考え込んでいた。
≫≫ 後編
深く掘った濠は干上がり、鉄の壁も触れれば崩れ堕ちる。
厳重な護りで固められた心の奥の奥、一番弱い部分に触れられるのは、いつだっておまえだけだった。
けれどいま、その護りは脆くも崩れ去り、大切なはずのものが無防備に、外気に晒されている。
直江。
何故おまえはそれを許せるんだ?
この間、初めてあった赤の他人が、オレのその部分に触れてきた。
こんな状況を、何でおまえは許してるんだ?
□ □ □
ホテルの部屋の鍵を開け、小太郎は先に高耶を中へ入れた。
入るなり、高耶は服を脱ぎ始める。
小太郎はカードキーをテーブルの上に置いてから、尋ねた。
「夕食はどうされますか」
「いらない」
「少しは何か食べないと身体に───」
「いい」
"身体の心配をすること"は綾子から教わった直江信綱らしい行動のひとつだったのだが、今日の高耶の気には召さなかったらしい。
「早く、シャワーが浴びたい」
高耶はすでに上半身を脱ぎ終わって、ズボンのベルトの手をかけている。
小太郎がいると脱ぎにくいから、早く出て行けということだろう。
「明日の出発は何時になさいますか」
「…8時」
高耶の答えを聞いて、小太郎は一瞬動きを止めた。
(今の間)
出発時刻を言う前の、わずかな間。
この間が最近、小太郎を酷く悩ませている。
「直江?」
「………わかりました。では明日、8時に」
「ああ」
高耶の部屋を後にして、小太郎は知らず知らずのうちにため息をついていた。
先程の間。
たぶんかなり長い時間を高耶と過ごさない限り、気付かないだろう。
実際、最初の頃の自分は違和感すら感じなかった。
けれど今は解る。
(あれは、"直江"に何かを求めている合図だ)
けれど小太郎にはそれが何なのか、さっぱりわからない。
小太郎はもう一度大きく息を付くと、自分の部屋へと向かった。
何か規則があるのではないかと、探ってみたりもした。
前後の何気ない行動から、その日全ての行動を洗い直した。
小太郎自身の行動や、その時扱っている事件の種類、場所、時間、果てはその日の天候までデータ化してみたが、なんの法則も見つからなかった。
ある時は先程のように、事件後の宿の部屋で。
ある時は車を運転中の何気ない会話の中で。
ある時は事件の経過報告の電話越しに。
合図があるということは、それに呼応する何かしらの行動があるということだ。
いったいそれは、何なのだろうか。
「んなの、直江にしかわかんねーよ」
ツインルームの片方のベッドの上から、千秋は投げやりに言った。
「それでは困る」
「困るったってねえ……」
こっちも困るっつーの、とうつ伏せになってぼやいている。
「俺だってあいつらの言動やら行動やら、全部を見てた訳じゃねえからなあ」
「けれど私よりは確実に知っているはずだ」
「そりゃあ、そうだけどな……」
しばらく考えていた千秋は、こんな話、したくもねえ、と言いつつ口を開いた。
「つまりな、景虎が求めてんのは、愛情表現……つーか、コミュニケーションなんだよ、たぶん」
「コミュニケーション?」
「ただ必要なことを喋ってるだけじゃあコミュニケーション不足ってこと。あいつらにはあいつらのやり方があるからな」
「その、やり方とやらが知りたい」
「だから、そんなのは直江にしかわかんねーだろ」
「どうしてだ?何故わからない?」
「ほら、SMプレイじゃあ鞭で叩くのがコミュニケーションの手段だろ。幼児プレイだったらオムツ替えんのがそうだ。でも、大抵の人間はそんなことしないだろ。つまり、同じ嗜好を持った者同士じゃねーとわからないことがあるんだよ」
なるほど、と小太郎は手を顎へとやった。
「鞭で……叩く……」
「こら。それは例えだからやるんじゃねーぞ?」
すっかり寝る体制の千秋は、眼鏡を外してサイドボードへ置いた。
「そんなに極端じゃなけりゃあ、そこらへんの夫婦にだってあるんだろーぜ。ふたりだけにしかわからない感情表現みたいなのが」
「例えば」
「例えば?あー、夕飯がハンバーグだったらいいことがあった証拠だから聞いてみるとか、朝テーブルに新聞がなければ機嫌が悪い証拠だから気を使ってみる、とかさ」
千秋は説明をしながら、自分で頷いている。
「あいつらにもそういうのがあって、その"間"とやらはそーゆーのの一環なんだろ。でも、そんなルールは書面にしてある訳でもなければ、約束事ってわけでもない。ふたりの感覚的なものだろ」
だから直江にしかわかんねーって言ってんの、と言って、千秋はソファに備え付けのクッションを股の間に挟みこんだ。そうやって眠るのが癖らしい。
小太郎は、まだ深く考え込んでいる。
(つまり、逆に考えれば……)
「それさえわかれば、私は直江として更に強く認識されるという訳だな」
「……まあ、そーなるかな?」
ポリポリと頭をかいた千秋は、もう寝るぞ、と言って布団を被った。
(そうなるだろう)
あの"間"は、小太郎が直江らしくあるための、新たなる突破口でもあるということだ。
これは、ますます研究しなくてはならない。
(まずは、観察だ)
"間"以外にもそういうルールがあるのに、自分は見落としているかもしれない。
("景虎様"をもっとよく知ろう)
千秋がさっさと照明を落としてしまったせいで部屋は真っ暗になったというのに、小太郎はその後もしばらく、動くことなく考え込んでいた。
≫≫ 後編
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