それでも先程から、往来が途切れることはない。
目の前には、小さなバスのロータリー。
それを挟んで向こうに見える、昔ながらの商店街。
そんな駅の、改札口の脇。
白いコートの青年と黒服の男が向き合って、互いの片手を握っていた。
吹きぬける風が、新しい季節の到来を告げている。
青年の視線は少し不安気で、子供が親を頼って見上げているようにも、親が心配そうに子供を見つめているようにも見えた。
男はそれを、優しげな瞳で見守っている。
青年の、きゅっと結ばれていた唇が開かれて、若い、けれどどこか落ち着いた雰囲気の声が、発せられた。
「忘れ物は」
「ありません」
そう答える男の声もまた、静かに聞き入ってしまうような不思議な魅力を持っている。
「遣り残したことがあんなら今のうちだぜ」
「ありませんよ」
男は微笑を浮かべていた。
青年は、何か言わなくてはと思う。笑顔で送り出すと決めたのだから。
なのに言葉が浮かんでこなかった。とても笑顔なんてつくれそうにない。
おまえなら大丈夫だと言えばいい。不安に思うことなどないのだからと。
でも、目の前の男は不安げな顔などしていない。
むしろ、かつてないほどの穏やかな顔だ。
そんなものなのかと思う。
まるで、はじめてのおつかいに子供を送り出す、親の心境だ。
不安でしょうがないのは実は、自分のほうなのだということに気付いて、青年もまた、笑みを浮かべた。
他人と関わりを持つ度、
真剣に現実と向き合う度に生まれる、
あの宝石のような輝かしい、愛しいもの。
それを何と呼ぼう。
歴史と呼ぶか。
真実と呼ぶか。
それを、ひたすらに求める道のりだった。
まだまだ足りない!
もっとたくさんの歴史を!
もっとたくさんの真実を!
そして、いつしか翻せない事実に気付く。
この道のりには、最終地点(ゴール)がない。
だから。
オレはもうよかったんだ。
どの瞬間も、歴史を積み重ねられたのなら。
真実を求め続けられたのなら。
オレたちの道のりは、決して消えない。
オレたちが生きた証は、永久にのこってゆく。
だからもう、いつ終わりにしてもよかったんだ。
「そろそろ行かないと」
「ああ」
わかってはいるが、手を離したくはない。
男も、自分から手を離すつもりはないようだ。
「……………」
無言で佇むふたりの元へ、どこかから、聴いたことのある曲が流れてきた。
「この歌………」
昔、好きでよく聞いていた。
たまに思い出したように口ずさんでいた歌だ。
「……オレはもう、おまえに話すことは出来なくなる」
音の流れてくるほうを見つめながら、青年はそう言った。
「おまえを導くことはできなくなる」
出来る限り、そばにいるつもりではいるけれど。
永い永い道程全てに、付き合ってやることは出来そうにない。
男が、気が狂いそうになるほどの恐怖に駆られたとしても。
声を枯らして号泣してもなお、収まりきらないほどの悲しみに駆られたとしても。
命を絶つことすら億劫なほどの、無気力に駆られたとしても。
もう大声をあげて、叱咤することはできなくなる。
「けれどこの歌を聴いたとき、おまえはきっとオレの声を想いだす」
「ええ」
青年が再び向き直ると、男は穏やかな表情のまま頷いた。
「歌だけじゃないんですよ」
男の低い声が、特有の語調で言葉を紡ぐ。
「あなたと私を繋ぐものは、他にもたくさんある」
二人で目にしたもの、聴いたこと、触れたもの。
様々なものが、ことが、ふたりを繋げてくれる。
「だから心配しないで」
いつもの微笑が、男の顔に浮かんでいる。
「私なら大丈夫だから」
「───ああ」
励ますつもりが、逆に窘められてしまったようだ。
「あなたとの日々を想えば、いつでも進むべき道は見える」
「わかってる……」
呟いた青年の着る白い服の裾を、一陣の風が巻き上げる。
おまえは常に、終わりを否定し続けた。
ここがゴールだと書いてあってもその立て札を蹴散らす勢いで、
おまえは歩み続けた。
"自分の想いは永劫、変わることはない"
ただそのことを証明したいのだという。
その夢物語を聞くたびにオレは、
おまえにそこまで口にさせる自分自身の価値というものを、
保障される気がしていたものだった。
そしてその熱に中てられたように、
もう少しだけ、生きてみようかという気になった。
そんな風に生きながらえてきたことへの罰なのだろうか。
初めて、心の底からリミットの先延ばしを願ったというのに。
その願いが、叶うことはなかった───……。
大きな音が鳴り響いて、青年ははっと顔をあげた
発車のベルが、時間切れだと告げている。
男は一度だけ、青年の手を強く握ると、ゆっくりと優しく解いて、改札口へと歩き始めた。
遠ざかっていく後ろ姿を、青年は為す術なくじっと見つめる。
追いかけちゃいけない。
自分はあの改札を通ることはできない。
………けれど。
「────ッ!」
気がついたら、声を上げて駆け出していた。
おまえはこれから、未知の旅路へと足を踏み入れる。
誰もが笑うであろう夢物語を、現実のものとするために。
それは受け入れがたい現実に、
真摯に向き合う強さを持ったおまえだから、
導き出せた結論だろう。
オレの生きてきた道、オレのしてきたこと、
それらがおまえの強さにつながったというのなら、
これほど嬉しいことはない。
オレたちの四百年の先にまだ続きがあるということが、
どれほどオレに救いを与えていることか。
だからオレは、残りの自分の全てをかけて、
おまえの往く道を護りたいと思う。
オレの持てる全ての力を、捧げたいと思う。
そして誓う。
オレの身体も思念も魂すらも、消えてしまったとして。
それでも。
オレの、オレたちの遺してきたもの。
そして、これから遺していくもの。
この胸にある、決して消えない想い。
その全てで、この先もずっと、おまえとともに歩むことを。
「直江!!!」
名を呼びながら、全速力で走り寄る。
驚いて振り返った男に、しがみつくように抱きついた。
「直江……っ」
抱きとめた男の腕も、力いっぱいに抱き返してくる。
溢れ出す感情で、胸がはち切れそうだった。
「なおえ……」
感情が涙となって、頬を幾筋も伝っていく。
この想いで、この強さで、おまえを護るから。
ずっと護るから。
おまえから貰ったたくさんのものが、オレをここまで導いてくれたように。
これからのおまえの往く道を、オレたちの日々がきっと護っていく。
不安なとき、つらいとき、苦しいとき、オレを想い出して欲しい。
おまえがオレを想うとき、かならずオレも、おまえを想っているから。
「ずっと一緒だ」
涙声に、ええ、と男もこたえた。
「ずっと、繋がっている」
いつも、どんな時も、何処にいたとしても。
ふとした瞬間に想いだす。
共に聴いた歌、共に見た風景。
共に感じた風の感触、共に浴びた波の飛沫。
共に登った険しい山道、共に駆けた果てない草原。
共に濡れた突然の雨、共に迎えた朝の光。
交わされた無数の言葉、数え切れぬ涙。
力強い視線、しなやかな四肢、髪の滑らかさ。
繋いだ手のぬくもり、触れ合った肌の熱さ。
自分の名を叫ぶ、愛おしい声。
それらあらゆるもの、全てで。
自分達はずっと、つながっていける。