やっと定宿へと戻って来たのは、23時を過ぎてからだった。
シャワーを浴び、申し訳程度の肌の手入れなんかをしていたら、時間が経つのはあっという間だ。
突如鳴った部屋の呼び出し音に、こんな時間になによと備え付けの時計を見れば、その針はすでに0時を回っている。
非常識者は、ルームサービスのボーイだった。
華やかな生花となんだか高そうなシャンパンをにこやかな笑みで室内に運び込まれて、頼んでないとも言い出せない。
ボーイが去った後で、花に添えられたカードをみつけた。
無記名のカードには、よく知った字で"HappyBirthday"とだけ書かれている。
それを見たところで初めて、日付が変わって自分の宿体・門脇綾子がとうとう二十歳になったのだということに気が付いた。
「すっかり忘れてたわ………」
ここ数日はとある人物をひたすら尾行しているだけの毎日だったから、日付をあまり気にしていなかったせいだ。
「………にしても、過剰演出よね」
もちろんカードに名前などなくとも、これが誰の仕業かなんてわかりきっている。
門脇綾子の誕生日を知り、いま自分がこの部屋に泊まっていることを知り、更にこんな気障な真似をする人間は、この世にひとりしかいない。
ついさっきまで一緒だった、はす向かいの部屋に泊まっているあの男だ。
綾子はシャンパンとグラスをふたつ、手に取ると、自室のルームキーをポケットに入れて男の部屋へと向かった。
数秒で到着してしまう男の部屋のチャイムを鳴らせば、向こうも察していたのか誰何の声も無く扉が開く。
「こんな日に独りで飲ませるつもり?」
綾子がそういうと、直江信綱はいつもの微笑で部屋へと招き入れてくれた。
「今週分の報告書には目を通したのか」
ガラステーブルの上に広げられていた書類は、全国に散らばる《軒猿》からの報告書だ。
直江はそれを読み込んでいたらしく、ところどころ分析したような書き込みも見受けられる。
「今日くらい大目に見てよ」
綾子だって普段は自分の担当区域の報告書はきちんと読んでいる。直江に比べればその範囲はかなり狭いけれど、学業との両立を考えればそれで手一杯なのだ。
「………今日だけだぞ」
眉を八の字にした直江は、慣れた手つきでシャンパンを開栓し、グラスに注いでくれた。
その動作をぼんやりと眺めていた綾子の胸に、様々な想いが過ぎっていく。
四百年前、出会った頃はあれだけ憎たらしかったこの男も、今ではもしかしたら一緒にいて一番落ち着く相手かもしれない。
なんといって今やふたりだけの夜叉衆だ。
直江にとっても景虎の話を出来る唯一の相手なのだから、綾子としても多少の信頼はかっているつもりだ。
「やっと、解禁ね」
手渡されたグラスを、綾子は満面の笑みで受け取った。
アルコールが合法になる年齢を、待ち望んでいたのだ。実にやっかいな「未成年飲酒禁止法」なるものが制定された際、自分ほど憤慨した人間はいなかったかもしれない。
「乾杯」
グラスを合わせてから、発泡する金色の液体を少しだけ眺めて、口へと流し込んだ。
「はぁ~、おいし♪」
もちろん隠れて呑むことはしょっちゅうだから全く初めてのアルコールという訳ではないのだが、やはり格別なものがある。
けどねえ、と綾子は直江の顔をみた。
「あんたとふたりじゃ、いつもとたいして変わんないわね」
直江は綾子の飲酒を決して許しはしなかったから、ふたりで酒を酌み交わすのはこの宿体になって初めてのことだったけれど、なんだか全く初めてのような気がしない。
「贅沢をいうな」
やはりいつもと変わらない調子の直江にそう言われて、ちょっぴり浮かれていた自分を戒めたくなってきた。
「………そうね。ほんとなら、祝える立場じゃないものね」
忘れる訳もない、その事実。
「何がハッピィよね。毎年この日だけは、嬉しそうなパパとママの顔をみるのがつらいのよ」
誕生日=換生日だ。アルコール解禁は嬉しくても、罪の重さを軽くはしてくれない。
「家族にとっては、おまえを授かった日に変わりはないはずだ」
直江はあっという間に空けてしまった綾子のグラスに二杯目を注ぎながら言った。
そういう直江こそ、相変わらず黒服を纏っている。
「そんな服着て言われてもねえ」
綾子がそう言うと、直江も自分のグラスを飲み干して二杯目を注ぎ始めた。
「昔、こんな風に言われたことがある」
グラスに飛び込んでいく液体の音が、爽やかに部屋に響きわたる。
「歳を重ねることを喜べないのは、自分が以前より不幸になったと感じているからなんだそうだ。そしてそのことは、周囲の人間をも不幸にしてしまう、と」
「ふうん、なるほどね。女の人にでも言われたの?」
直江は小さく首を振った。
「誕生日を祝ってもらって笑顔のひとつもみせない俺に、父が言ったんだ」
グラスの中の気泡をみつめながら、直江はその頃を思い出すように喋る。
「俺はその当時、正直誕生日どころではなかったんだが、自分が喜ばないことで家族が不快になることは間違いないと悟った。それ以来俺は、この命を1年間繋ぎとめられたことだけには感謝するようにしている」
自分達は、この宿体を奪った時点で目に見えぬ不幸を背負わせているのだから、と直江は言う。それ以上負担はかけないためにも、何とか誕生日気分を盛り上げなくてはならないということだろうか。
「そうね……。1年間がんばってきたことのお祝いだと思えばいっか」
二杯目も飲み干してしまった綾子は、直江に三杯目を催促する。
「それに、私は以前より不幸だとは思ってないわ」
大好きなあの人にはまだ会えていないけれど、進展がないという意味では悪化もしていない。
幸福への距離は、変わらない。
(………そうじゃないわ)
幸福も何も、本当なら幸せなど求めてはいけない立場だ。
自分がいまこうやって、心穏やかに大事な人を待っていられるのは、それをしてもいいと許してくれた景虎のお陰だ。景虎が許してくれたことで、自分の心は世間に対する免罪符までも手に入れたのだと綾子は思っている。
その免罪符に報いるためにこそ、自分は使命を果たさねばならない。
「………そうなんだけどね」
《軒猿》たちがいるとはいえ、《闇戦国》が活性化してきた今、ふたりだけで怨霊調伏となるとなかなか忙しい。
景虎の、あの頼もしい声や力強い眼差しが無性に恋しく感じられた。
会ってよくがんばってると一言褒めてもらえたらどんなに気が楽になるか。
直江は時折グラスを口に運びながら黙ったままだ。
その心がいつだって景虎を求めて彷徨っていることを知っている。
少し大きめの窓に視線をやると、外には街の灯りが無数に散らばっていた。
あの中のどれかが景虎だという可能性だって無いとは言えない。
「景虎に、会いたい」
そう言うと、直江が驚いたようにこちらをみた。
声に出すとますます恋しくなってくる。
「ね、もっかい乾杯しよう」
明るい声になるように気をつけながら、綾子は言った。
「何にだ」
景虎に会えるように、とは言わない。
「もちろん、アルコールの解禁日に」
「………そうだな」
直江は静かに微笑むと、綾子に向かってグラスを掲げた。
シャワーを浴び、申し訳程度の肌の手入れなんかをしていたら、時間が経つのはあっという間だ。
突如鳴った部屋の呼び出し音に、こんな時間になによと備え付けの時計を見れば、その針はすでに0時を回っている。
非常識者は、ルームサービスのボーイだった。
華やかな生花となんだか高そうなシャンパンをにこやかな笑みで室内に運び込まれて、頼んでないとも言い出せない。
ボーイが去った後で、花に添えられたカードをみつけた。
無記名のカードには、よく知った字で"HappyBirthday"とだけ書かれている。
それを見たところで初めて、日付が変わって自分の宿体・門脇綾子がとうとう二十歳になったのだということに気が付いた。
「すっかり忘れてたわ………」
ここ数日はとある人物をひたすら尾行しているだけの毎日だったから、日付をあまり気にしていなかったせいだ。
「………にしても、過剰演出よね」
もちろんカードに名前などなくとも、これが誰の仕業かなんてわかりきっている。
門脇綾子の誕生日を知り、いま自分がこの部屋に泊まっていることを知り、更にこんな気障な真似をする人間は、この世にひとりしかいない。
ついさっきまで一緒だった、はす向かいの部屋に泊まっているあの男だ。
綾子はシャンパンとグラスをふたつ、手に取ると、自室のルームキーをポケットに入れて男の部屋へと向かった。
数秒で到着してしまう男の部屋のチャイムを鳴らせば、向こうも察していたのか誰何の声も無く扉が開く。
「こんな日に独りで飲ませるつもり?」
綾子がそういうと、直江信綱はいつもの微笑で部屋へと招き入れてくれた。
「今週分の報告書には目を通したのか」
ガラステーブルの上に広げられていた書類は、全国に散らばる《軒猿》からの報告書だ。
直江はそれを読み込んでいたらしく、ところどころ分析したような書き込みも見受けられる。
「今日くらい大目に見てよ」
綾子だって普段は自分の担当区域の報告書はきちんと読んでいる。直江に比べればその範囲はかなり狭いけれど、学業との両立を考えればそれで手一杯なのだ。
「………今日だけだぞ」
眉を八の字にした直江は、慣れた手つきでシャンパンを開栓し、グラスに注いでくれた。
その動作をぼんやりと眺めていた綾子の胸に、様々な想いが過ぎっていく。
四百年前、出会った頃はあれだけ憎たらしかったこの男も、今ではもしかしたら一緒にいて一番落ち着く相手かもしれない。
なんといって今やふたりだけの夜叉衆だ。
直江にとっても景虎の話を出来る唯一の相手なのだから、綾子としても多少の信頼はかっているつもりだ。
「やっと、解禁ね」
手渡されたグラスを、綾子は満面の笑みで受け取った。
アルコールが合法になる年齢を、待ち望んでいたのだ。実にやっかいな「未成年飲酒禁止法」なるものが制定された際、自分ほど憤慨した人間はいなかったかもしれない。
「乾杯」
グラスを合わせてから、発泡する金色の液体を少しだけ眺めて、口へと流し込んだ。
「はぁ~、おいし♪」
もちろん隠れて呑むことはしょっちゅうだから全く初めてのアルコールという訳ではないのだが、やはり格別なものがある。
けどねえ、と綾子は直江の顔をみた。
「あんたとふたりじゃ、いつもとたいして変わんないわね」
直江は綾子の飲酒を決して許しはしなかったから、ふたりで酒を酌み交わすのはこの宿体になって初めてのことだったけれど、なんだか全く初めてのような気がしない。
「贅沢をいうな」
やはりいつもと変わらない調子の直江にそう言われて、ちょっぴり浮かれていた自分を戒めたくなってきた。
「………そうね。ほんとなら、祝える立場じゃないものね」
忘れる訳もない、その事実。
「何がハッピィよね。毎年この日だけは、嬉しそうなパパとママの顔をみるのがつらいのよ」
誕生日=換生日だ。アルコール解禁は嬉しくても、罪の重さを軽くはしてくれない。
「家族にとっては、おまえを授かった日に変わりはないはずだ」
直江はあっという間に空けてしまった綾子のグラスに二杯目を注ぎながら言った。
そういう直江こそ、相変わらず黒服を纏っている。
「そんな服着て言われてもねえ」
綾子がそう言うと、直江も自分のグラスを飲み干して二杯目を注ぎ始めた。
「昔、こんな風に言われたことがある」
グラスに飛び込んでいく液体の音が、爽やかに部屋に響きわたる。
「歳を重ねることを喜べないのは、自分が以前より不幸になったと感じているからなんだそうだ。そしてそのことは、周囲の人間をも不幸にしてしまう、と」
「ふうん、なるほどね。女の人にでも言われたの?」
直江は小さく首を振った。
「誕生日を祝ってもらって笑顔のひとつもみせない俺に、父が言ったんだ」
グラスの中の気泡をみつめながら、直江はその頃を思い出すように喋る。
「俺はその当時、正直誕生日どころではなかったんだが、自分が喜ばないことで家族が不快になることは間違いないと悟った。それ以来俺は、この命を1年間繋ぎとめられたことだけには感謝するようにしている」
自分達は、この宿体を奪った時点で目に見えぬ不幸を背負わせているのだから、と直江は言う。それ以上負担はかけないためにも、何とか誕生日気分を盛り上げなくてはならないということだろうか。
「そうね……。1年間がんばってきたことのお祝いだと思えばいっか」
二杯目も飲み干してしまった綾子は、直江に三杯目を催促する。
「それに、私は以前より不幸だとは思ってないわ」
大好きなあの人にはまだ会えていないけれど、進展がないという意味では悪化もしていない。
幸福への距離は、変わらない。
(………そうじゃないわ)
幸福も何も、本当なら幸せなど求めてはいけない立場だ。
自分がいまこうやって、心穏やかに大事な人を待っていられるのは、それをしてもいいと許してくれた景虎のお陰だ。景虎が許してくれたことで、自分の心は世間に対する免罪符までも手に入れたのだと綾子は思っている。
その免罪符に報いるためにこそ、自分は使命を果たさねばならない。
「………そうなんだけどね」
《軒猿》たちがいるとはいえ、《闇戦国》が活性化してきた今、ふたりだけで怨霊調伏となるとなかなか忙しい。
景虎の、あの頼もしい声や力強い眼差しが無性に恋しく感じられた。
会ってよくがんばってると一言褒めてもらえたらどんなに気が楽になるか。
直江は時折グラスを口に運びながら黙ったままだ。
その心がいつだって景虎を求めて彷徨っていることを知っている。
少し大きめの窓に視線をやると、外には街の灯りが無数に散らばっていた。
あの中のどれかが景虎だという可能性だって無いとは言えない。
「景虎に、会いたい」
そう言うと、直江が驚いたようにこちらをみた。
声に出すとますます恋しくなってくる。
「ね、もっかい乾杯しよう」
明るい声になるように気をつけながら、綾子は言った。
「何にだ」
景虎に会えるように、とは言わない。
「もちろん、アルコールの解禁日に」
「………そうだな」
直江は静かに微笑むと、綾子に向かってグラスを掲げた。
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